高知について③

引き続き高知のことを書く。

青春18切符を使って、宇和島からの列車で四万十川を眺めながら高知入りした。

四万十川の美しさを学生の頃にテレビで見て、いつか行きたいと思っていたが、その「いつか」は20数年後のことになるとは思っていなかった。まぁ、の時に「行きたいと思っていた気持ちもその程度のもの」だったのだろう。

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山間をそして川沿いを走るローカル列車の旅は楽しかった。蒼く流れる川も美しかったし、四万十川に架かる沈下橋も初めて肉眼で見た。

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…しかし、以上なのだ。

今回の列車旅で気が付いたのだが、清流というものはその冷たい流れに足を浸して、せせらぎを聞いてこそのものなのだ。列車の車窓から眺めているだけのものではない。それならば、テレビで見るのと大差ないし、テレビの方が水中映像とかも出てくる。


大切なのは「見るのではない。体験するものなのだ。」


このことには車中にいる時に気がついてしまった。しかし、数時間に一本しかやってこない列車を降りて、四万十川に足を浸してしまえば、高知市への到着は夜になってしまう。

敵前逃亡を容認するようなかたちで、四万十川との直接の触れ合いは諦めて、は列車の窓から眺めるだけにした。

従って、本当の四万十川体験をしていないのだから、その良し悪しを言える資格もない。しかし、また四万十川に行きたいか?というとそうでもない。

足を浸して、せせらぎを聞くことのできる清流は、わざわざ高知まで出掛けなくても、もっと近いところにあるからだ。

いいところだけど、もう一度!とは思わない四万十川
18切符の貧乏旅行ではなく、そして有り余るほどの時間を持った時、再び行くところなのかもしれない。