この日が「お茶漬けの日」であるということを昨年初めて知った。
東京港区あたりの「老舗のインスタントお茶漬けメーカー」が設定した出鱈目な「お茶漬けの日」である。
そんな出鱈目なお茶漬け製品のお陰で、大半の日本人は変に化学的な旨味のついた緑色をした粉をかけてお湯を注いだメシをお茶漬けと呼ぶようになったようだ。お茶なんてかけていないメシなのに!
メシをかっこむ有難さとか、お茶の旨味は関係ないのだから…。あの化学調味料の入った粉をかけたものでなくてはお茶漬けと認識出来ない馬鹿が増えているようだ。悲しいことだ。
しかし、悲しがってばかりもいられない。痛ましく思いつつも、この日がやって来ると「お茶漬け」の正しいあり方について考えるのも面白いと思うので、僕にとっては「お茶漬けを検証する日」として、きちんとお茶漬けと向き合いたいと思う。
そもそも、お茶漬けなんてもんは冷飯に熱いお茶をかければボソボソとした冷飯もそれなりに美味しく食べられるという生活の知恵みたいな「余り物の処理術」だったのだろうと思う。
そんなお茶漬けは保温炊飯器もない昭和の中期までは当たり前のように家庭で生きていたのだろうから、小津安二郎の映画にあるように「家で飯を食べる中での当たり前の出来事」だったのだろう。
僕も10年くらい前に電子レンジを持たずに、そして保温機能のある炊飯器も持たずに生活していた時期がある。
この時期における炊きたての飯の有難さは絶大なもので、とにかくメシはその都度に炊いて食べていたのだけど、やはりすべてを食べきれる訳ではない。
冷たくなったメシをどうやって美味しく食べるか?電車レンジの偉大さを感じながらも、ボソボソに固くなったメシと対峙する一年であった。
そんな時期に冷たいメシを食べる時に重宝した食べ方がお茶漬けであり、冷飯を雑炊にすることであった。
今でも鍋で炊いた飯が時間経過してボソボソとしたものを食べる時には、その時のお茶漬けの記憶が蘇る。何度もお茶をかけてメシをふっくらとさせて啜り込む美味さ。みすぼらしい経験だけど、それはそれで楽しかったように思い出される。
さて、話題を本来の「お茶漬け」に戻そう。
この一年で僕が楽しんだお茶漬けについて、残っている写真をここに載せてみよう。
いずれも思い出すと愛おしくなるようなお茶漬け。
写真には残しているようなお茶漬けなんて、僕にとっては御馳走の記念撮影であるから、本来の日常のファストフードではない。
どのお茶漬けも御馳走だが、写真に残していたもの以上に、テキトーに食べるメシとして僕はお茶漬けと接していると思う。
それら全てに感謝し、日本人に画一的な化学調味料汁かけ飯をお茶漬けと刷り込んだ「馬鹿なお茶漬けの日」を作った馬鹿企業による「間違ったお茶漬け文化」を崩していきたいと思う。