春の終わり

何を持って「今年の春が終わった」とするのか?

色々な切口のあるテーマである。


梅雨入りすれば、そこで春が終わって夏が始まったようにも思うし、半袖のTシャツを寝間着として着用するようになると春が終わって初夏が始まるような気もする。

瞬間的に凄く日差しが強くて、尚且、蒸し暑いような気候だと「もう夏だよ」と口にしたりもする。

季節の境界線なんて明確にあるわけでもないだろうし、実に流動的で主観的なものだろうとも思うのだけど、食卓においての季節の移り変わりを「食いしん坊」である僕としては採用したいと思う。


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春から初夏にかけても美味しい季節の食物はあるけれど、春の終わりを感じるものが「コシアブラ」である。

田舎の出身なので、僕は春の山菜には馴染み深いと思う。蕗の薹に始まり、野芹〜土筆〜筍〜蕨〜タラの芽…と、春を感じさせてくれる山菜を子供の頃からよく食べていた。

とりわけ、筍と蕨は子供の頃から何度となく家族全員参加での収穫大会に連れて行かれて、やたらに沢山採っていたし、その収穫量に比例して食卓にそれらが登る機会も多かった。


そんな山菜ラインナップには含まれないけれど「コシアブラ」も美味しい山菜だ。

もう15年くらい前になるが、友人とコシアブラを探しに山に出掛けたことがある。本で読んだ知識でコシアブラを欲したのであり、それまではコシアブラなど食べたこともなかった。

結果、コシアブラは見つけることすらできず、タラの芽を見つけて採ってきたように覚えている。未だに野生のコシアブラを見つけたことはない。もっとも、それ以来、特にコシアブラを山に探しに出掛けたことも無いと思う。

毎年ではないけれど、スーパーでコシアブラを見つけた時には買ってきて食べているように思う。大抵のものが東北地方で採れたものである。

こうしたコシアブラを目にするのは、5月の中旬から下旬にかけての事である。もう少し早くから気の利いたスーパーには「高価なコシアブラ」が並んでいるようにも思うが、少し安くなったり、安売りコーナーに現れるのが5月の中旬以降なのである。そうなってからでなくては、庶民の僕はコシアブラを認知しない。


今年も先週末にスーパーでコシアブラを買ってきた。
天婦羅にして食べようと思っていたものだが、タラの芽やコゴミも一緒に買って来ていて、それらを美味しく揚げて食べることに夢中になり過ぎて、コシアブラを天婦羅にすることを忘れていたのだ、実は…。


そんな訳で、今年のコシアブラ胡麻酢味噌和えにした。

山菜の王様はタラの芽で、コシアブラは山菜の女王である…みたいな文をどこかで読んだことがある。王様にはなりきれないマイナー具合。

そうした立場における似たような表現では「鮪の王様は本鮪で、女王は南鮪だ」ということを例えがある。これには大いに賛同する。南鮪のマイナー具合も多少はあるのだろうけど(なんて言ってると男女平等を訴える団体からぶっ叩かれるのかも知れないが…)、味わいの柔らかさから判断しても、まさにそのとおりのように感じる。

しかし、コシアブラにおいては嫋やかな味わいというよりも、苦味や美味さはタラの芽よりも力強さを感じる。日本人の多くが想像しやすい女王像というよりも、女帝みたいな…真の権力者である女王のような力強さを持つ山菜だ。エリザベス女王エジンバラ公爵フィリップのような感じだろうか…。


さて、そんな女王の味わいを堪能したら遂に春も終わるのであろう。いよいよ、僕の食卓における季節でも夏が本格的に始まるのである。こうして47歳の春も終わりを迎える。