2021年の梅仕事

先月、異例というくらいに早い梅雨入りを迎えた。

梅雨に入ってから数日は本当に梅雨らしいジメジメして雨降りの日が続いていたが、それも一週間に満たないくらいの長さで、それ以来、比較的過ごし易い気候が続いている。

梅雨の間に取り掛かっておこうと思っていたことが「梅仕事」である。


自分で書いておいて何なのだが、「梅仕事」って変な言葉のようにも思う。この言葉は僕が敬愛する辰巳浜子先生の書籍などにも使われている言葉なので、深く考えもせずに使用したのだけど、やはり違和感がある。

「仕事」という言葉のイメージとか「仕事感」は人それぞれだろうけど、僕にとって「仕事」というのはやはり嫌なものであり、我慢を伴うことのように捉えられる。

人生の多くの時間を費やす仕事をそんなに嫌なものだと捉えたくはないのだが、嫌なものは嫌なのだ。

生活の楽しみの一つとして取り組んでいる「梅干を漬けるという崇高な行為」に対して、今後「仕事」という忌み言葉を使うのはやめることにする。

では「梅遊び」というのが正しいのかというと、それはそれで違和感を覚える。趣味であることは間違いないし、それで生計を立てる訳でもないから「遊び」であることは違いないのだけど、梅で遊んでいる…というのも梅に対して失礼なようにも思えるのだ。

日本語と言うのは難しくあり、奥深いものである。


さて「梅干作り」本来の行為に話を戻そう。


いい天気でもないが、雨も振らずジメジメもしていない梅雨の中休み、朝から農協に出掛けて梅を買ってきた。

数週間前から様子を見に行っていて、今日あたりは黄色く色付いた梅が安くに売られているだろうし、そろそろ買っておかないと梅のシーズンも過ぎて行くだろうと思ったからだ。

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ちゃんと計ったわけではないが、目分量からすると一袋がおそらく1キロ。去年、漬けた梅干には3キロの梅を用いたので今年は倍の量を漬け込むことにした。

1キロあたり450円なので、スーパーで売られているものよりもずっと安い。産地による味の差もあるのかと知れないけれど…。

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そんな梅たちを水洗いしてザルに上げて乾かす。
気が早くて既に干している訳ではない。
梅一つ一つの水を拭き取るのが面倒なので、風に当てて乾かしているだけだ。


乾いた梅を取り込んで、ヘタの部分を取り除こうと思ったら、今日買ってきた梅にはヘタの残り滓がほとんど付いていないことに気付いた。

これは完全に推測なのだけど、青いうちに枝からもぎ取った梅と違って、熟した梅を枝から採ったのだろうと思う。枝から落ちんばかりに熟した梅だから、ヘタのところの枝との滓も梅に残らなかったのだろう…と。


こうして下拵え(…と言っても洗っただけだが)した梅を塩に漬ける。塩の分量は梅の重さの15〜20%くらい。

塩をまぶして放っておくと、梅から水が出て(それが梅酢)梅がフニャフニャになってくる。赤紫蘇を加えて色付けするのはまだ先のこと。

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これにて本日の作業は終了。
漬け込んだ梅を干すのはお盆前くらいになる。
これから2ヶ月くらい先のことだ。

甘い梅の香りに満たされた部屋で寛ぎながら、早くも出来上がりの梅干のことを想像して唾を飲む。そんな梅雨時期の午後。