ある晴れた午後

昨日の梅雨空が一転して、今日は朝から青空。

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午前中から投票したり、ホームセンターに行ったり、種まきしたり、塩揉みした赤紫蘇を梅に加えたりとアクティブに動いていた。


そして午後。

僕は5月の下旬にある暗渠を辿ってみた。
市内の住宅街に突然現れる用水路のようなきれいな水の流れを追ってみたのだ。

2キロくらいだろうか。
住宅街をサラサラと流れる小川はいきなりコンクリートで蓋をされた溝になる。まさに暗く閉ざされた渠(みぞ)だ。

側溝の蓋の下を流れる水の音を聞きながら、はっきりとは見えない川を辿ること1キロあまり。追跡してみたものの、遂に僕は川の流れを見失ってしまった。

これは3週間前の出来事である。


そんな川の流れはどこに行っているのか気になっていたので、今日の午後、捜索を再開した。全開、流れを見失ったあたりから再び川を探そうと言うものである。

……と、勇んで出掛けたらあっという間に見つかった。
その川はあまりにも堂々と地表に姿を現し、普通に流れていた。

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川の流れを辿り、周辺の環境が住宅街から農地へと変化して行く様子を肌で掴む。

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グーグルマップで調べたり、ウェブで検索すれば、この暗渠はどこから現れてどこに続くのかすぐに分かるだろう。

知識を増やすにはそれで充分かも知れない。しかし、僕は知識ではなく体感と体験を求めていた。「百聞は一見にしかず」を力説するつもりでもない。知識(百聞)には知識の良いところもあるし、体験(一見)にも時間を要すなどのデメリットもある。

しかし、今日のような体験は僕にとっては生きていく上での大切なビタミンなのだ。蒸し暑くなってきた郊外を歩きながら、それを強く感じた。