「人間は管である」

20代の前半、大学生だった頃の僕は「80年代カルチャー」が好きだった時期がある。

90年代半ばのことなので、当時からするとそんなに昔のことではない。しかし、80年代という時代を小学生〜中学生として過ごして、90年代になってから大学生となった僕にとって「大人が過ごした80年代」と言うものは、それは遠く昔の時代の出来事や世相であり、研究対象(大袈裟な言い方になるが…)としては充分に未知であり興味深いものであった。

今になって思うと、バブル経済の訪れ前夜からバブルに日本が喜び狂っていた時代が80年代で、その残り香に喜んでいたのが大学生後半の僕だったと考えると、それは興味を惹かれるものだったはずだと納得出来る。


さて、そんな頃に喜んで読んでいたのが「金魂巻」である。マル金マルビと呼ばれる金持ちと貧乏人のカテゴライズに大いに笑いながら、マルビと位置づけられること人間にはなりたくない…なんてことを本気で考えていた学生時代であった。

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僕がこの名著(?)を喜んで読んでいた当時からすると、本当にちょっとだけ前の出来事なのに「随分と昔の歴史文献」を見るかのように楽しめたのは、日本の経済成長における環境変化と僕自身の少年期〜青年期への成長変化が相まってのことだ。


そんな「金魂巻」の中に「人間は管である」という言葉があったと記憶していた。

「人間なんて食べて飲んで、人体を経由してそれらを外に出すだけ」なので、所詮、管のようなものだ…という意の言葉で、金魂巻を読んでから20年以上経った今となっても「面白くもあり真理を表した一言だ」と思い込んでいた。



……なんて思い込んでいた「人間は管である」説だけど、これが金魂巻の言葉であるというのは僕の記憶違いで、これはどうやら山口瞳先生の言葉だったらしい。

肝心の金魂巻の言葉は「人間は汁だ」だったようだ。

これはブログを書くにあたり、ウェブで検索してみたはすぐに分かったことである。

人の記憶というものは、なんのきっかけなのかは分からないけど、いとも簡単にすげ替えられてしまうものだとあらためて感じた。

今日のブログで書こうと思っていた「人間は管である」については、また後日に続く!