出雲という町には小学生の頃に家族で旅行したことがある。
…と言ってみたところで、その当時に何を見たとか何を食べたとかの記憶は本当に曖昧で、父親の運転する車の窓から外を眺めていると住宅の側に防風林みたいな木が立ち並んでいたことを覚えている。しかし、そうした光景は今回の旅では見かけなかったので、僕の記憶違いなのかも知れないけど…。
この夏旅では、朝、割と早くからホテルの無料自転車を借りて、出雲大社を目指した。ベタな観光地訪問である。特に縁結びをお願いしようとも思っていないので、完全に典型的な観光客の行動である。
自転車移動のいいところは、観光地に向かっていたとしても、その町の様子を肌で感じられるところである。駅前のホテルから出雲大社までは10キロくらいあったが、汗だくになりながら自転車をキコキコと漕いで、途中市街地を走り住宅地や田圃の中を通る間に、町の表情を感じ取ることが出来た。
日本を代表する立派な神社に詣でるよりも、その町の様子を見ることの方が僕にとっては楽しくて価値のあることなのだ。
そんな出雲旅で楽しかったのが、地元のスーパーを訪れて地元の食材を見ることだった。
野菜については、日本の田舎に行けばだいたいどこでも同じような旬のものも並んでいるし、旬でもなんでもない野菜だって沢山用意されている。ものの良し悪しや価格の差はあるが、見たこともないものに出くわすようなことは殆ど無い。
日本人の食卓もだんだんと「その地方とか家庭それぞれの献立」は消えてきているのだろう。ある作物が沢山採れたからそれがある間はそればかり食べる…なんて言う「食物に人が合わせにいく献立」ではなくて、「今日食べたい気分になった献立」に必要なものがスーパーでは供給されるようになる。これは流通主導の経済文化のもとでは当然だろうし、とても便利な世の中である。悪いことではないが、なんだか寂しくもある。
作物の旬とは関係なく、望まれた献立を実現出来るような供給体制が野菜においては随分と進んでいる。しかし、魚については、まだ地方色とか漁獲の都合に合わせた旬のものというのが生きているように思う。
そんな訳で、地方のスーパーに行くと魚売り場を見ることを楽しみにしている。
普段、僕の住む街ではあまり見かけることもない飛魚の刺身。出雲では4軒くらいのスーパーを見て回ったが、どこでも飛魚を売っていたから、飛魚というのは出雲市民の食卓に根ざした魚なのだろう。
マンサクの刺身用なんて、本当に見ることは無い!
子供の頃に母親から「シイラっちゅう呼び方は、皆が嫌うからマンサクって呼ぶ人もおるんよ」なんて話は聞いていたので「マンサク」と言う名にも驚きはしなかったが、やはりその名で流通しているのを目にすると、それなりの地域性を感じずにはいられない。
※これはネットで見つけた記述。
そして、夏に美味くなる魚「ヒラマサ」。
この魚も僕の住む地方では、ないことはないがそれほど夏らしさと共に出回ることは少ない魚のように思う。鯵よりの鰤みたいな感じで、旨さも歯応えも素晴らしいし、昨年の秋から冬にかけては旬ではなくなったものの「魚を熟成させる楽しさ」の対象として我が食卓にも数多く登場した美味しい魚だ。
観光なんてそっちのけで、スーパーに並ぶ魚に興奮しながら楽しい時を過ごしたのだけど、この日も出雲に泊まることを決めていたので「その夜に食べる酒の肴(文字通りの魚!)」を選ぶとなると、本当に買物としての楽しさも伴うのだ。
そして、この夜、僕が食べた日本海の魚はこちら。
水蛸と鰯。
これらは期待が大き過ぎたのだろう。
美味しくないことはないが、それ程の感動はなかった。
値段で味が決まる訳では無いが、安いものを買ってきたので「値段の割には…」なんて思うならば充分に満足出来るのだけど、まあどこの地方でも食べられるだろう…というような味だった。
タコと鰯に肩透かしを食らったのだが、この夜の真打ちがこちら!
イサキの刺身である。
夏のイサキは美味しいものだが、出雲で食べたこのイサキは格別に美味しいと思った。
500円くらいで食べる刺身としては、それが申し訳無いくらいに思うほどの美味しさ!とは言え、この夜には食べきれなかったので、翌朝、このイサキを茶漬け(厳密に言うならば湯漬け)にして美味しくいただいた。
旅から日常に戻り、僕が出雲でイサキを食べてから既に3週間が経とうとしているが、いまでもその味を恋しくて思うほどの美味さだった。
しかし、今になって思うと「出雲ではならでは」という観点からマンサクや飛魚を食べておくべきだった…と、このブログを書きながら気付いた次第である。