大分の夜を楽しく過ごした。
友との邂逅、そして彼らの饗しに依るところが全てなのだけど、本当に楽しい夜だった。
強かに酒を飲んだこともあり、翌朝の行動もゆっくり。大分駅に向かい次の旅先を決めるのは朝の9時を過ぎてからだった。
これまで大分というところを「本当にゆっくり訪れたこと」がなかったので、大分駅から東に向かうことは出来ないが、南にも北にも、そして西に向かうことが出来るとも知らなかった。
夏の休暇はまだ残されているのだから、更に九州の奥深くを目指すことも出来たのだけど、その時の僕は帰路につくこと…厳密に言うならば、まだウチには帰らないが「大分からは遥か東にあるウチ」に近い方向を目指そうと思った。
「大分での楽しかった夜をこの旅の折り返し地点にしよう」と感じ取ったような気がする。これは後付の理由だけど…。
大分を朝10時近くの鈍行列車で発っても、効率よく乗り継いで東に向かえば、最長の移動距離を叩き出せば日が変わる頃には京都まで行けることが分かった。…これも僕が苦心して計算した旅程ではなく、スマホで簡単に調べられたことなのだけど…。
宿酔の頭でうつらうつらしながら、僕を乗せた列車は九州の長閑な場所を走って北上していく。そして僕はたらたらと列車で過ごしながらも、九州の玄関口となる小倉駅の乗り換えのタイミングで、駅中の「やおい九州うどん」を急いで啜って列車に乗り込み、尚も東を目指す。
程なく列車は関門海峡を越えて本州に入り、そして山口県の4分の1あたりに来た頃だろうか。次の駅で東に向かうことをやめて列車を降りて乗り換えて北上すれば「再び綺麗な日本海を見ることが出来る。そして、日本海に沈む夕日を見ることも出来るのではないか!」と気が付いた。
出雲から大分に向かう列車の窓から見えた夏の日本海はそれほどまでに魅力的だった。
「印象的だった日本海の景色を再度、この目に焼き付ける」それもいいことだ!しかし、ここで日本海を目指すならば、今夜の宿泊はどの町になるのだろう?えっ?また、出雲に泊まるのかな??
…そんなことを考えているうちに、ノロノロ走行だったはずの鈍行列車はあっという間に分岐点となる駅に到着し、僕の行先についての結論を待つこともなく特急列車のように東に向かって出発した。
簡単に言うと、僕が判断に迷っている間に列車が進んだけのことだ。
行動を起こす前に物事を考える必要がある。
しかし、考える時間は無限にある訳ではなく、判断にすることを急かないと、行動に移すことも出来なくなってしまう。
他人から見れば「あてもないおっさんのブラリ旅での、残念なおっさんの優柔不断な1シーン」なだけなのだろうが、この1シーンは僕に改めてものを考える機会を与えてくれた。
旅の行先だけではない。
ものを判断するには熟考することも大切だけど、判断を急ぐ必要もある。そして、判断したことに対して実行するだけの行動力も必要だ。仕事で面する局面でも、日々の暮らしの中も他愛のないようなことであっても…。
その列車に乗り続けて東に向かうしかなくなった僕は、そんなことを反芻するように考えていた。
考え事をしていれば、鈍行列車で過ごす時間も短く感じられるのか…とも思うのだけど、僕を乗せた鈍行は「旅の分岐点を過ぎた途端に本来のノロノロ走行」に戻り、いろいろなことを考えてみてもなかなか列車は距離を稼がなかったように思う。
本来の鈍行列車にあるべき「割と退屈な時間」とともに、僕は再び東を目指した。