【旅の思い出】経験するということ

今年の夏もいよいよ終わろうとしている。

暦の上ではとうに秋を迎えているのだが、まだ暑い日もある。しかし、秋を感じされられる気候の日も増えてきた。今日は久しぶりに暑い日だったのでエアコンをつけているが、この夏の大きな思い出である旅について、おそらく締め括りになる思い出を記しておく。



旅の最後の宿泊地は鳥取だった。夏の休暇はまだ残っていたが、青春18切符も切れることだし、そろそろウチに帰ろうかもと思ったのだ。


旅の序盤に出雲を訪れてその町を満喫した時に、山陰という土地の持つ空気をとても好きになった。地味と言うならば、そのとおりに地味なのかも知れないが、僕にはそれが「とても奥床しい」ことのように思えたのだ。このあたりは人それぞれの好みの問題でもある。


この夏の旅では、朝から昼間の出雲をうろうろしたのだけど、出雲にいる間にはそこの夕景は目にせずに次鳴る目的地の九州に向かった。出雲ではないのだけど、僕はこれまでに何度か日本海に沈む夕日を見たことはあったのだが、それも何年も昔のことだった。

そんな昔のことを思い出し「数十年ぶりに日本海に沈む夕日を見たい」と思っていた。ならば、まだ訪れたことのなかった鳥取砂丘を訪問して、そこから日本海に沈む夕陽を見ようと、旅の途中で決めていたのだった。




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写真は日が暮れて暗くなった鳥取砂丘を去る際に、振り返って砂丘を見た時のものだ。日本海の先に沈んだ夕日のうえにはひとつの輝く星が見えた。

日が出ている間の砂丘の砂は熱い。日が沈むと途端に砂は冷たくなる。これは砂丘でなくとも、海水浴場でも感じられることだが、すでに冷たくなった鳥取砂丘の砂に足を取られながら暗くなった砂の中を歩いていると、その先から「奇妙な格好をした少年」が僕に話しかけてくるような気がした。その時に僕は砂漠に不時着してしまった飛行士になったような気がしたのだ。

広い砂浜…それは砂丘なのだから当たり前なのだろうけど、そこを歩いていている時にサン・テグジュペリの「星の王子さま」のことを思い出していた。


そして、砂丘を歩き抜けて振り返った時に僕の目に入った輝く星は「王子さまの星」であるように思えた。この鳥取砂丘には本当に星の王子さまがいて「たいせつなこと」を僕に考えさせるために僕の心に話しかけて来たのではないかと思った程だ。




この夏の旅で改めて感じたのは「自分の五感をフルに使って経験して、そこでいろいろなことを感じ取る」ことの大切さだった。

アリバイつくりとか、スタンプラリーのスタンプを押して回るように色々な所に出掛けることは出来る。僕が子供の頃に親が連れて行ってくれた旅行だったり、見どころ満載の修学旅行なんていうものは、そんな「単なるアリバイ作りだった要素」が多かったように思う。

しっかりとした意思を持って自分自身で「訪れた先」を感じ取る。感度を上げることも必要だけど、ものを感じ取るにはそれなりにゆっくりと過ごすことも必要だ。

アリバイ作りのように行っただけのことを自ら感じたホンモノの経験だと勘違いしてはいけない。勿論、その町を知ろうと思えば、旅行ではなくてその町に住んでこそ…とも思うのだけど、人には生活を支えるための「今の生活」も大切にしなくてはならない…という矛盾もある。


「日常の生活」と「非日常の旅」。
これらを一緒にすることを望んだのが松尾芭蕉であり、松竹映画の寅さんもそんな御仁の一人なのかも知れない。


目に見えたものは、単なる「砂丘のひとつ星」だっただけなのかも知れない。しかし、「大切なものは心に残る経験を自分自身で感じ取ること」なのだと、この夏旅で「鳥取砂丘の王子さま」が教えてくれたのだろうと思っている。