未来の生活

このブログを書き始めて間もない頃に「未来の生活」について書いたことがある。

その時は「レコードやCDを買わなくてもネットで音楽が聴けるし、そもそも音源にお金を払わなくてもタダで音楽や映像をウチにいながらにして楽しめるなんて、どれ程恵まれた環境なのか!」という生活について書いた。


データ化出来るものがウェブを介してやり取りされるのは既に当たり前になっているし、品物についてもウェブで注文して買物する機会が増えている。僕も実際に店舗に赴いて買物するのは、日々の生鮮食品と本当に簡単なものばかりで、ある程度ちゃんと欲しいものはウェブ通販で買ってばかりだ。

今更、取り立てて言うほどのことでもないのだろうけど、そんなことについて「今更思ったこと」を記しておく。



f:id:datetaira:20210929072336j:plain
先日ウェブで購入したものがこれだ。
「椿の油粕」である。


先週末にコガネムシ幼虫の襲来に恐れ慄き、土曜日には9匹を駆除して終わりかと思っていたら日曜日の朝にはまた2匹が現れる次第。

捕まえたこれらはプランターの表層部に出てきたやつであって、土の奥深いところにはまだ何匹も潜んでいるのだろうか…と思うと、やはり決定的なダメージを与えられる新兵器を投入するしかないと思い近くのホームセンターに探しに出掛けた。

出掛ける前に「椿の油粕」が効果を持つことをウェブで調べていたので、買うべき目標商品は決まっていたのだけど、そのホームセンターには置かれていなかった。

そこでウェブ注文したのだが、日曜日に頼んだものが月曜日の夜には自宅に届いている。これは品物がワープでもしてあっという間に僕のウチに現れたような便利さである。


この「椿の油粕」を持ち出した幼虫との闘いの模様は、また別の機会に記すかと思うのだけど、ウチにいながらにして品物が簡単に届くという便利さには本当に驚く。

田舎に住むことと都会に住むことの大きな違いは「ものを手に入れ易いかどうか?」が大きな要素なのだけど、ここの差が本当に少なくなっている。

田舎に住んでいても、データで音楽や映像は楽しむことが出来るし、品物についても相当簡単に手に入れることが出来る。

都会に住むことでの魅力の一つである「繁華街の賑わいを味わう」とか「街ゆくオシャレな人を目にする」ということは「その街に実際にいなくて」は感じにくいことなのだけど、僕のようなおっさんになってくると、そのあたりの魅力もだんだんと存在感が小さなものになってきている。


実際に今現在、僕が住んでいる街は程々な地方都市だ。生活に不便はないし、まぁ便利なところだけど、文化的な刺激を受けることも無い。街を歩いていて物欲をくすぐられるような「いい品物」を目にすることもない。お金を払って見に行きたくなるような展覧会や演奏会もない。浅はかな消費文化を満たすためだけの、つまらん街だ。

では自然豊かで、季節の移り変わりをダイナミズムを持って感じられるかというとそんなこともない。家庭菜園用の市民農園を借りようにも、場所は遠い上に料金も高い。都市開発の失敗による空地や空きテナントはそこらにあるというのに!


こんな街であっても以前は「それでもド田舎より便利だから」という魅力はあったのだろうけど、通販で多くのものが手に入る現在では、ちょっとした街の優位性などない。

町に映画などなくったって、ウェブ動画で映画を楽しむことが出来る。何なら田舎の方が周囲を気にすることなく大音量で音楽をかけることだって出来る。

ならば、そんな魅力のない中途半端な地方都市にそこそこの家賃を払って住むことになんの価値があるのだろうか?

ちょっとしたウェブでの買物をきっかけにして、このブログに綴ってみた考えであるが、ここ最近、本当によく考えるようになったことだ。


子供の頃に夢見た「ポチッとスイッチを押せばモノが出てくる」という未来の生活も今や現実になっている。

当たり前のようになったこうした生活インフラの変化も受け入れたうえで、自分のこの先の生活をどう捉えるか?
しっかりと考えていかなくてはならない。