煮染めを食べ終えて思うこと

来客があるというと、それなりに頑張って食事の支度をする。

それは「今や人と一緒にメシを食べることの方が珍しくなった僕については、日時における非日常」なのだから、つい頑張ってしまうことなのだろう…とも思う。



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先日舎弟がやって来た時に支度をした煮染めの余り物を、その後数日に渡って食べていた。僕の持っている一番大きな鍋で炊いた煮染めなので、端から直ぐに食べ終わるとは思ってもいなかったものだ。

木曜日の夜から支度を始め、金曜日の夜に食べ頃を迎えるように仕込んだ煮染めをだ。金曜日の夜には娘を呼びつけて彼女らが食べるであろう分はタッパーに入れて持ち帰らせた。

そして金曜日の夜には舎弟に振る舞い、翌日もその美味さを楽しんだ煮染めだが、月曜日を迎えた僕のもとにはまだその煮染めが残っていた。そして、その煮染めは弁当にしたり夕食に食べたりしながら、水曜日の朝に完食した。

作る量と食べる量を正確に推測すれば過剰に残り物になることなどない。そんな計算が出来ない程の馬鹿でもない。

数日に渡って残り物になりつつ、それを食べ続ける事になるのは分かっていたけど、それでも尚、僕は多量の煮染めを炊いたのだ。



「余り物を食べる」
そんなことは一昔前は当たり前のことだっただろうけど、今ではそれは当たり前のようになっていないのではないかと思う。

炊事の手間を考えたら、数日分の煮染めを一時に作っておくのは合理的だと思うし、そうして作った煮しめの方が味も染みて美味いということもある。しかし、それと同時に「余り物を食べる事がみすぼらしい」と感じる人もいるようだ。

そりゃ、出来立てのものや買っていたばかりの新鮮な刺身がズラリと並ぶ食卓に対しての憧れはある。しかし、経済性や作業効率も鑑みるならば「余り物を食べる」という行為も重んじなくてならないのだと思う。

「余り物」というみすぼらしい響きの食物の中にも確かな喜びはあるのだ。数日に渡って食べても毎回美味しい!と思うようなものを作ればいいのだ。

そんな簡単なことを実践するには、とにかく丁寧に誠意を持って台所に立つしかない。綺麗事ではなく、最近そんなことをよく考える。