「御馳走」の感覚

世の中の流行にはそれなりに反応したいと思っているのだけど、そこに反論したいことも多くなってきた。

子供の頃は「ウチの飯≦外食」だと本気で思っていた。これは僕の育った家庭にそれなりの問題があったのだろうと、今になって思う。

…って、今の日本の家庭では自宅で美味しいものを食べるという行為は年を追うごとに減っているようにも感じるから「美味しいもの=外食」と思い込む子供たちも多いのだろうな…。これは悲しいことだと思う。

この外食が持て囃されていることを「冒頭に挙げた流行」と言っていいのかどうかも分からないが、僕にとってこれは反論したい事象なのだ。



さて、先日のことだけど、長男と長女、この二人と共に昼御飯を一緒に食べた。このブログにも記した「秋刀魚を食べた」時のことである。


その日の献立を記しておくが、

■柴漬、蕪の漬物
■芹のお浸し
■昆布と山椒の佃煮
■山葵の粕漬
■秋刀魚
大根おろし
■鱈子の塩焼き
■白飯
以上である。


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食べながら子供たちとも話をしていたのだけど、献立だけを見ても「凄い御馳走」を食べたようには思わないだろうね。しかし、今日のメシは紛れもない大御馳走なのだよ…。そんなことを話していた。

ピカピカの銀シャリに焼きたての秋刀魚を一緒に食べるなんて、僕が思いつく「秋の御馳走」の中でもトップクラスの献立だ。悪趣味的に言うならば「とにかく松茸を食べる」とかやたらに高価なものを尊重する人もいるかも知れないが、それはクラスの差として無視しておく。

ちなみに、この時の我が食卓については賞味期限が迫っていて安く売られていたものを買ってきたので、3人分を支度しても材料費は1,000円に満たない。
 
外の店で食べるならば一人1,000円で食べても、きっと3倍は愚か3分の1も美味しくはないものを食べることになったのだろうと思う。勿論、そこには食器を洗ったり給仕しなくても良いというサービスは含まれるのだけど…。


「さあ、美味しいものを食べよう!」という話になった時、僕は表の店に出掛けるのではなく「僕のウチで○○を食べたい!」とリクエストされたい。

支度や後片付けの手間を気遣う人もいるだろうから、これを万人に求めはしないのだが、気のおけない間柄の人にはこう思って欲しい。


勿論、「見栄えのする、そして風習的にも皆が納得する御馳走料理」と「美味しいけどあくまでかっ込み料理…というかメシ!」というものの区別は分かっているつもりである。

「御馳走を振る舞います」と言って人を招いてその人を饗す家庭宴会において、どれだけ好きでもインスタント食品はいただけないように思う。

しかし「外の店で食べればそれなりにちゃんとしているだろう」と盲目的に信じてはいかんと僕は思う。本当にちゃんとした食物で人を饗す店もしっかりと存在するが、そんな店は僕にとっては縁を持ちたくないほど高価過ぎるのだ。

そして安価に食物を楽しめる店の多くは「アミノ酸調味料」とか「ちゃんとしない調味料」に頼った料理を出してくる。ちゃんとしないものを、あたかも御馳走のように出して来るのだ。これはいただけない…。



「大口を開けて食べる」という言葉が好きだ。
食べるものの価格を気にせず、なんなら旬のものなので安価ですよ!みたいなお墨付きのあるものを、屈託なく大口を開けて食べたいものだ。