贅沢を覚えること

今は月曜日の夜で、僕は先週の土曜日の朝早くから、息子の一人暮らしの手伝いに出掛けていた。

大学の入学金やら下宿を借りる費用とか、これから揃える家財道具のために、金など幾らあっても足りない。まあ、これは僕の収入レベルでの「幾らあっても」という話なのだけど…。


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そんな訳で僕たち親子は下宿探しの時に続いて18切符を使い、鈍行で住み慣れた町を旅立った。

リュックサックにスーツケース、そして両手に竿とか金具を持っての移動は「昭和の夜逃げスタイル」とでも言おうか…。あるいは「戦後のヤミ米買い出し親子」とでも呼べそうな格好だったと思う。

これから何度かに分けて、息子の一人暮らし補助の際に思ったことを書くのだけど、今日は体が覚えた贅沢について記しておく。


今、僕は自分のウチに戻り、2日ぶりにゆっくりと風呂に入っている。息子の下宿にはシャワーしかないので、湯船に浸かることなど出来ない、湯船が存在しないのだから!

今夜の風呂はそんなに熱くなく、どちらかと言うとややぬるいくらいなのだけど、こうしてゆっくりと風呂に浸かってしっかりと汗を流すということをしなくては「ちゃんとした生活」をしていないのではないか?と感じることに気が付いた。

シャワーを浴びて洗髪もしているが、身体の汚れというよりも体内の疲れ成分を洗い流していないような感覚だ。やるべきことをやらずに取り敢えずごまかしている…みたいな気持ちになるのだ。

考えてみると、ここ数年の僕は間隔あけても1日くらいで長風呂に入っている。週のうち5日くらいは一時間以上湯船に浸かっているのではないだろうか。

これをやってようやく人心地がつく。

毎日、一時間も風呂でのんびり過ごすなんて贅沢な時間の使い方のように思うし、実際僕も贅沢に入浴生活を楽しんでいると思う。しかし、これがないと体の疲れが取れないような気がするのだ。


そして2日間、僕は息子の下宿のフローリングで寝袋に入って眠っていた。この三日間は季節外れの寒の戻りで2月並みの寒さになったようだ。

そんな寒い日だから、フローリングから背中に伝わってくる寒気も結構なもので、朝目を覚ましたら背中やら腰がガチガチに強張っていた。勿論、体も冷えている。これに懲りたので二日目はダンボール作ったマットを敷いて、毛布を一枚プラスして眠った。

昔からダンボールというのは素晴らしい道具だと思っているのだが、先週末もダンボールの恩恵を受けまくったところだ。これにより、背中からの寒気は随分とカット出来たのだが、そうなるとマクラが欲しくなる。

これにはダンボールを小さめに折り畳んで対応したのだが、おおよそ三角柱になったダンボールを寝かしてマクラにしているだけなので、首が動くとマクラも共に動き、ともすると延髄斬りを喰らうような形で首の上辺りに三角柱の一角が当たったりするのである。

床の対策が出来れば次はマクラ、快適さを求める欲張りな気持ちは留まることがない。



ちょうど30年前、僕が大学生になった時、何に憧れたのか思い出せないが「どこでも文句を言わずに眠れる男」になりたいと思っていた。

これはのび太くんのような居眠り好きのことではない。荒野で焚火にあたりながらハットのつばをおろして眠るようなアメリカンなガンマンみたいなイメージである。

このため、僕は一人暮らしを初めて当分の間、フローリングの床で眠ったり、寝袋で寝たりしていた。「慣れ」というのはすごいもので、そのうち僕は本当にどこでも眠れる男になっていた。布団なんかで眠る時には快適すぎてのび太くん並の早さで眠っていた。

そんな思い出からも30年。
僕はすっかりと贅沢を覚え、床などでは寝た気がしないようになってしまった。「慣れはすごい」ので、しばらくフローリングで眠る生活を続けるとそのうちにどこでも眠れる男になるのだろうが、そうなりたいとは今は思わない。