雨の休日

「雨の休日」というタイトルでこのブログを過去にも数度書いたことがあるように思う。

この週末は曇りだと思っていて、気持ちの良い初夏の気候など端から期待していなかったのだが、朝から雨が降っていた。

ゴールデンウイークに農協に出掛けてから数週間、僕はそこらのスーパーの安売り野菜を食べていたので「農協の新鮮なちゃんとした味のする野菜」を欲していた。

表を見ると雨は降っているが本降りでもないので急いで自転車に乗って農協まで出掛けた。

ジージャンを引っ掛け傘はささずに小降りの雨に濡れながらの移動の途中、去年も同じような行動をとり、そしてその様子をこのブログに書いたことを思い出した。

帰宅して見返してみると去年の6/6 に今日と同じようなことをしていた。そして去年の5/28に僕はコシアブラを食べて「春が終わった」と宣言していた。

人の行動なんて、特に大人になって信じるものが定まってからは毎年変わらないようなことを行って毎年同じようなことを考えるものだとよく分かった。


さて、今日は農協で名残のたけのこを買ってきた。これは去年からやりたかった「シナチク作り」のためだ。

本格的な中華蕎麦を作ることも食べることもそんなに多くはないが、たまにはそんなものを作ってみたりする。そこへの具材としてクキクキとしたシナチクが欲しいのだが、スーパーに売られていて簡単に手に入るものは過剰な味付けのされた歯応えのないものばかりだった。ならば作ればいい。

そんな思いから、幾分か安くなった名残のたけのこを買ってきて塩漬けにした。シナチクの成長についてはまた別稿に記したい。



シナチクを仕込んだ後は過去に漬けた漬物の断捨離に取り組んだ。

僕の趣味は各種漬物作りであるが、食べること以上に漬けることが楽しくて、ウチの漬物ストックも飽和量を超えていた。

去年は辣韮を漬けなかった。なぜなら一昨年とその前に漬けた辣韮が残っていたから。

こいつらは時が経つ程に熟成されていき、旨味は増すのだけどその旨味と完全に比例して歯応えもなくなる。塩と辣韮だけで作られたものとは思えないくらいに不思議な旨味が出てくるのだけど、その分ポリポリとした辣韮ではなく得体の知れない柔らかな漬物になるのだ。

ただ、この旨味を含んだ謎の食品も何かの料理に使えるだろうと思って取っておいたのだけど、未だに僕のウチに3年前に漬けたものが残っているということは「こいつは結局、僕の料理のスタメンにならない」ということが分かった。

なんだか惜しい気もするが、食べもしないものが台所の一角を占拠しているということの方が嫌なので躊躇せずに捨てた。

あと、この冬に漬けた沢庵と一昨年漬けた柴漬の一部も廃棄した。沢庵については旨味を引き出そうと思ってしっかりと干したのだがそれが仇となり、歯の悪い年寄りだと絶対に噛み切れないくらいにシワシワの歯応え満点のもが出来上がってしまった。率直に言うと「僕は沢庵作りに失敗したのだ」。

また、一昨年に漬けた柴漬は非常に美味しかった。これは失敗作などではないのだが、あまりに美味かったので何か特別な時に食べようと思ってジップロックに詰めて冷蔵庫のそこに放り込んでおいたものだ。

二パックのジップロックがあるのだが、その片方のものは熟成が進みすぎて黒茶色っぽいものへと変貌していた。もう片方は赤紫の柴漬だと視認出来るものだ。

両者の違いが何によって生じるのかは、ここでは追求しないが黒茶色のものはきっと食べることもないので捨てることにした。

こうして漬物の断捨離をしていて思うのは、僕はなんと無駄なことに金と時間を費やしているのか!ということ。

美味しいものを沢山作りたい。そんな欲から、なくなっても寂しくないように一度に沢山のものを作るのだけど、失敗するものもある。これは僕の腕の問題なので仕方ないとしよう。失敗を積み重ねて人は成長するものだ。

しかし、美味しく出来たものを廃棄するのは本当に勿体無いことだ。美味しく出来たから美味しく食べられるうちに自分で食べきってしまうか、食べ切れそうになければ人にあげればいいのに、人にあげるのすら勿体無いとケチ臭いことを考えてしまい、結局一番勿体無い「廃棄」という結末を迎えるのである。

適量を作り、美味いうちに食べきる。
簡単なことだが、そんな簡単なことすら出来ていない自分を諌めながら、今日仕込んだシナチクがそんなことにならないようにちゃんと育てていきたい。