翌日の楽しみ

昨夜は娘二人と天婦羅を食べていた。

天婦羅屋に出掛ける訳などなく、僕が揚げる自宅天婦羅である。

昨日の朝、農協に出掛けたら美味そうな夏野菜が色々とあった。茄子、甘長唐辛子、オクラ、茗荷。

いずれも夏のパワーを蓄えたかのような旨味いっぱいの野菜だ。これらをそれぞれ、煮浸しとかソテーにして食べようかと思っていたが、どの野菜も天婦羅にしても美味しいものであることに気が付いた。

夏野菜を存分に楽しむ天婦羅にしたかったので、あえて魚介は足さない。精進揚げである。


基本的には僕は天婦羅職人に徹して、頃合いを見つつひたすら天婦羅を揚げる。娘たちは揚げたての天婦羅を「親の仇のように」貪り食う。

熱い天婦羅を美味そうに食べる娘とそれを見て喜び、ウィスキーを飲みながら天婦羅を揚げる僕。この一時は実に楽しい。食べる側も作る側も互いに満足しているので、天婦羅における幸せの需給バランスがとれているのだ。


さて、天婦羅職人の僕は昨夜は僅かしか天婦羅を食べていない。茄子とオクラを一片ずつ食べたような気がするくらいだ。

そん風に天婦羅を楽しんだ翌朝のメシがこれだ。

天とじ丼である。
冷めた天婦羅を温めた天つゆに入れて、生玉子をかき混ぜて玉子とじにする。そいつをご飯に乗せれば出来上がり。実に簡単なもので、料理と呼ぶほどのものでもないがこれは美味しい。

無論、揚げたての天婦羅には敵わないが、天婦羅が揚がりたての時の僕は酒を飲む事に夢中なのだ。僕が揚げたての天婦羅を楽しむことよりも、ゲストに天婦羅を美味しそうに食べてもらいたい。そして、その様子を肴に酒を飲んでいたいのだ。

そんな訳で、僕にとっての「食べる天婦羅」というのは翌朝の冷めた天婦羅であり、そいつは大抵の場合、天とじ丼として僕の目の前に現れるのである。


刺身の翌日のお茶漬け。
すき焼きの残りの牛丼みたいなもの。
豚しゃぶの翌日の豚汁。

我が家で人の集まる時の御馳走だが、その翌日も美味しく楽しいし、もしかしたら翌日の方が楽しみなんではないか?と思うこともある。