【旅の思い出】ものを持ちすぎるということ

息子との二人旅で実家に帰省していた。

極力シンプルに暮らすようにしている「平素の僕の生活空間」と違って、実家にはものが溢れんばかりにあり、溢れんばかりというよりも溢れたものに侵食されて本来の生活空間がごちゃごちゃと散らかっている有様だった。


僕も「収集癖」とか「ものを捨てられない」という傾向があるので、気持ちは分からんでもないが、すっきりと片付いている…という状況とは程遠い実家は、やはり心地よい環境ではなかった。

不必要なものを買うということがこれほどまでに快適な環境を遠ざけるのか!という発見に驚いた。全く嬉しいことではないのだけど…。


さて、ものがどんどん増えて、本来は広々としていて快適なはずの空間を一番損ねていたのは台所〜居間にかけてだったのだが、それはそのエリアに限らず、家中が荷物で溢れかえっていた。

それは室内に留まらず、相当に広い庭も同様でごちゃごちゃとしていた。何も外に荷物が置いてあるわけではなく、屋外にはいろいろな草花が植えられていて、既に世話がしきれない程の様子だった。




食べ切れない程のミニトマト(僕はトマトは好物だけどミニトマトは別物で何の魅力も感じないのだ)、採り切れずに伸びまくった青紫蘇、そしてセロリとバジル。

どの野菜も買ってくることを思うと「庭に生えていていつでも採れる」とても嬉しいものだけど、老夫婦二人で食べる量を遥かに超えていた。そもそも、セロリやバジルを僕の両親はちゃんと食べているのかも怪しく思うのだけど。


そして胡瓜に至っては、完全に採り時を逃したものがヘチマなのか何なのか分からないくらいに大きく育ってそこら中の蔓からぶら下がっていた。

これらは実家を離れる前の晩に父親に摘み取ってもらい、まだ胡瓜として食べられるうちにと全て柴漬に漬け込んでおいた。

材料の胡瓜と茗荷と赤紫蘇は庭に生えたもの。そこに「安かったから」という理由で食べ切れないほど母親が買い込んでいた茄子を加えて柴漬にしたのである。



…………。
植物を植えてそいつが育っていく様子を見るのは楽しい。そして、それが美味しい料理となって食卓に上るのもとても楽しく幸せなことだ。

しかし、何事もキャパを超えてはならん。
食べ切れないほど家庭菜園の収穫があるのなら、それらを消費することを優先して外の野菜を買うことを止めないといかん。

勿体ないからと収穫物を加工して瓶やタッパーに詰めておくのもいいけど、それらのお陰でパンパンになった冷蔵庫の冷却効果が低下したり、キッチンがごちゃごちゃとして作業しにくくなるなんて本末転倒なのだ。


自分のキャパを把握して、その範囲で万事がうまくいくようにものを持つ量を調整する。これは物理的な話だけではなく、人が(少なくとも僕が)快適に過ごすには大切なことなのだと考えさせられる夏だった。