娘の受験で感じたこと

我が家の長女の受験もまさに闌で、ここ10日くらいが彼女にとってのピークになるのだろう。

そう言えば「たけなわ」と言う言葉は宴会の際にはよく使用する言葉なのに、それを「闌」なんて書くとは知らなかった。

よく使う言葉なんていうものも「ただただ雰囲気で使っていて、この成り立ちもソレをどう書くのかすら知らない」なんて言葉は「闌」の他にも沢山のあるのだろう。恥ずかしいことなので、一つ一つをちゃんと考えるようにしたいと思った次第…。

 

さて、話題をタイトルに戻すと、まさに今が「娘にとっての正念場」だ。ただ、こんなことを書いていて思うのは、受験なんていうものは「試験日当日にどれだけ力を発揮出来るか?」が大切なのではあるが、それを本当に発揮出来るかどうかは「それまでにどれだけ真剣に準備をしていたか?」に依るところが大きい。

中には「それまでの模擬試験が全てE判定でも試験当日の逆転劇」みたいなこどが演じられることもあるのだろうけど、やはりそれは少数派であり、本質的には「どれだけ万全の準備が出来ているのか?」が受験の本質なのだろうと思う。

ならば、正念場なんていうものは夏とか秋とかの準備期間であり、その間の頑張りをアウトプットするだけの今(試験当日というもの)は正念場でもなんでもないのかも知れない。

 

「そんな夏〜秋の正念場」もそれなりにちゃんとこなしてきた長女は、まさに今、志望校の試験を受けている最中で、先日一つの試験を受けて今週末から他の学部の試験を連打してくる予定だ。

そんか状況だから、合格発表などまだまだ先のことだと思っていたのだが、今日の昼間に職場で娘からの電話をとった。

それは「娘からの合格連絡」でそれは僕も娘も「共通試験の結果で判定されるものだから、とりあえず出願だけでもしておくか…。これは到底難しいから受かるわけもないけどね、エヘヘ…」みたいな感じで申し込んでいたものだったので、完全に僕たち父娘の意識の外にいたものだった。

肩慣らしのつもりで、試験の真剣さに慣れて置こうとの意図から娘が受けてみた共通試験で、更にその結果は何かの大学の選考基準として形が出たほうが良かろう…みたいなスタンスでの出願だったと思うのだが、「この合格」に娘はとても喜んでいた。

その喜びに繋がる発言として、娘は「まあ、一番志望ではないから行かないんだけどね。志望するところに勝てなかったらスパッツと諦めて浪人して再度戦う!」みたいなことを言っていた。

しかし、「この合格」については、「頑張って勉強もしておけばそれなりに結果は出る。自分自身の頑張りが結果をもたらすことは、やはり嬉しいよ」というようなことを言っているのを聞いて、僕はとても嬉しく思った。

受験というものを「単なる結果を出すためのふるい」と捉えるならば、そこにおける価値というものは合否という結果だけにしかなく、合否によって受験自体が良かったか悪かったのかが判別されることになるのだろう。そして、受験に限らず大抵の仕事なんてものは「結果がだったのか?」だけで「その取り組み自体が意義があったのかどうか?」が判別されることが、少なくとも僕の過ごす社会においは常になっている。

 

娘の「一番志望以下の学校での合格は意味がない」という発言には「彼女なりに一つの合格通知に浮かれることもなく、退路を経って大一番に臨む気迫の現れだろう」と僕には思えるし、それでも結果を素直に喜ぶ彼女なりにの姿を見ると「結果はともかく、受験という試練を人生での頑張りどころ」として真摯に向き合っている彼女の直向きさを感じ取ることが出来た。

「花が咲く」に越したことはない。しかし、仮に「花が咲かないこと」があったとしても、長女は受験という機会を通じて人間的に大きくなっているのだろうと感じた。