このブログに「片喰(カタバミ)のことを書いたのは結構前のことのように思っていたが、それが5月下旬頃のことと知って驚いた。
僕のベランダ菜園のプランターの一つに片喰がいる。特に大切に育ててもいないが丈夫が身上の片喰は放っておいても元気に育っているので、根回しにするのも可哀想な気がして「なんということはなく」居候させている感じだ。これには「水呑み百姓をルーツとする我が家の家紋が片喰である」ということによる依怙贔屓みたいな作用もあるのかも知れない。
さて、そんな我が家の片喰もすっかりと花を咲かせて種を散らしてこの春の世代は終わりを迎えたように思ったので、枯れていった茎を片付けていたら既に次の世代の芽が沢山出ていた。片喰という植物の雑草精神に驚く…と言っても片喰はれっきとした雑草なのだった…。
その鼠算的な繁殖力を分かってはいながらも、僕はやはりそれに驚き、小さな芽と茶色く小さな種の散らばったプランターの土を近所の空地にばら撒いておいた。名作「花いっぱいになあれ」ではないが、荒地のような近所の空地に来年あたり可憐な片喰の花が咲き誇っていたらイイなあ…と子狐のようなことを考えての行為だった。
それから2週間が過ぎた今日、出掛けたついでに空き地の様子を見てみた。
…。
…。
!!。
ひとかたまりの片喰が何箇所かに花を咲かせ、そして実をつけているではないか!
土をばら撒く時に「この荒地のようなところには片喰はいないな」と一応確認したつもりだが、苔と間違えそうな小さな芽が僅か2週間のうちに実をつけるはずはない。先住民としての片喰一族がここに住み着いていたのを僕が見逃して、新たな若いファミリーを移住させたのだと思いたい。
実は我が家でのネグレクト著しい環境でもすくすくと育つ片喰の生命力は、僕にとっては少し怖かった。荒地とは言え、そこにはそれなりの生態系もあるだろうから、新参者の我が家の片喰がそこで先住民に迷惑を掛けないか…という懸念もあったからだ。
「自分で種を蒔いておいて『懸念』だなんて、どの口が言うのか?」と自分でも思うのだけど、沼津に越してくる前に僕は何年間も「町を紫蘇いっぱいにしよう運動」を続けてきた。
これには毎年、ホームセンターで紫蘇の種を買って来ては「成長していく可能性のありそうな空地らしきところ」に種を蒔き続けていたのだけど、紫蘇が定着することはなく、その行為を何年も続けていることに僕は寂しい思いをしていた。
自分で撒いた種(ここではタネとも読むし、シュとも読む)が、この場所で数代にわたって繁栄していくなんて「火の鳥」の創造主みたいじゃないか!
そんな手塚オタクみたいなことを願いながらも、その夢は叶えられなかったので「まさに火の鳥に登場するムーピー」みたいな感じで片喰の生命力に期待をしていたような気もする。
今日、僕が見つけた片喰が僕のウチ出身のものなのか?それとも先住民なのかの詮索はしない。
しかし、どうせ荒れたい放題に放られている空地なのだから、何かに利用される時には強力な除草剤も撒かれることだろう。それまでは黄色く可憐な花を存分に咲かせて「彼らにとっては安住の地」と思われる近所の空地でのびのびと暮らしてほしい。