これは数日前の朝食に食べた味噌汁の写真である。
僕は少し前にカボスを買ってきていたのだけど、それを美味しく食べたいが為に、しばらく「塩焼き好適品の魚」を探していた。
通勤の道筋にあるスーパーに立ち寄り、連日探してみたのだけどそこではビビっとくるものを見つけられなくて、まあこれでも仕方なかろう…という感じで鰆の切身を買って帰った。
結果的に買ってきた鰆は味噌漬けにしたので特にカボスを使うこともなく、カボスは大根おろしにたっぷりと絞って食べた。
大根おろしなんてものは、日頃から度々口にしているようにも思ったのだが、大根をおろしながら「この作業は結構久しぶりだな…」と感じた。
よく考えてみると、確かに夏の暑い間には大根を買った記憶もなかったので、僕が大根おろし…と言うか大根を食べることさえも数ヶ月ぶりのことのようだった(外食の添え物のような大根おろしとか味噌汁などの大根はカウントしないのだけど…)。
久しぶりにおろした大根にカボスを絞り、醤油をかけて食べる。分かっていたことだが、やはり美味い!
…しかし、尻尾の先をおろした夏の大根は僕には辛すぎた。大根のおろし汁とカボスの果汁と醤油が混ざった「大根おろしのオツユ」を啜っている時に既にその危険性をうっすらと感じていたのだけど、おろされた大根を口にすると舌がヒリヒリするほどに辛さがきつかった。
醤油がよくかかったところを2口くらい食べすすめると、舌だけではなく口全体が痛くなるくらい!「大根おろしなんてものは辛味こそが旨味!なんのなんの…!」とワシワシと男らしく食べたかったのだが、軟弱である僕はそれ以上食べ進めることが出来ずに大根おろしを残すことになってしまった。
さて、この夜同時に食卓にあげたのが「鰆の味噌漬け」であるのだが、こちらも特別にうまいものにはならなかった。この日の鰆は「魚としての良し悪し」の問題ではなく、西京漬けとは呼べぬような大味の田舎味噌に漬け込んだものだから、それこそ「土方のメシの菜」と呼ぶのが適したようなものになった。
「土方のメシの菜」と呼ぶようなものは僕の食卓において珍しくはないのだが、繊細な旨味が身上の鰆を漬け込むよりも、これはやはり鯖あたりで作ったほうが数段「土方指数」も上昇して美味しかったのではないかと思った。
冒頭の写真の味噌汁はこうした残り物によって作られたものだ。
「辛くて食べるのが嫌になった大根おろし」と「田舎臭くてそんなに美味くなかった鰆の味噌漬け」を味噌汁にした「ほぼ完全なる再生料理」なのだ。
冷蔵庫の残りもの処理をするような朝食だったが、素朴でありながらも確かな美味さを感じる味噌汁だった。この味噌汁は朝食では食べ切れず、その日の夜も味噌汁を啜りながらウイスキーを飲んで過ごした。
「残りもの」を出さない効率的な自炊サイクルに憧れるような気持ちはある。しかし、これも美味いのではないかな?という「食への好奇心」と美味いものを沢山食べたいという「僕の食意地」の両方にいい顔をしようと思うと、やはり余り物は出てくるのだ。
こうした副産物をうまく残さずに美味しく食べることにも生活の楽しさがあるのだ…という自己弁護をもう何年も続けている。