しばらく前に買った新米が驚くほど不味かった。水加減や浸水時間、メシの炊き方…そんなもん30年以上特に間違えることもなくこなしていたが、何かの炊き方が悪いのか?と思ったくらいだ。
結論としては「アレ(静岡コシヒカリ)は新米と偽った古米だったのだ」と思うようにしているが、もしかしたら新米の味を感じ取れぬほど僕の味覚もダメになってしまったのではないか…との不安もあった。
少しばかりの恐怖症のような状態で今夜は茨城の新米を炊いた。これはありがたい貰い物であるが、1斗あるのでこれが不味いようであれば本当に勿体ない…なんて、飯を炊く前から心配してみたりする…。
今日の飯には油を足すことも砂糖を加えることもしない。とにかく米と水だけで、しっかりと新米に向き合おうじゃないの!と意気込む。…って、言ったところで、そんなの偉そうに言うことではない。当たり前の炊飯に過ぎない。この間、「嘘もんの油と砂糖の炊き込み御飯(白飯風)」なんておかしなものを食べたから、僕の御飯でのニュートラルポジションもおかしくなってしまっているようだ…。
普通の水加減で普段通りの火力でワッと炊き上げた飯。炊き立てのにえばなの時に、蓋を開けたらモワッと出てくるその蒸気を僕は嗅ぐ。僕は麦シャリを炊くこともあるが、やはり銀シャリが炊けた時の甘い香り、そして微かに混ざってくる焦げた飯の香ばしい匂いが好きだ。……そう言えば、古いハードボイルド映画で飯の炊ける匂いが好きな殺し屋を宍戸錠がやっていたのがあった。あれもぶっ飛んだ変態映画だったがカッコよかった。
閑話休題。炊けた飯はすぐに茶碗によそい、熱いうちに食べる。鉄は熱いうちに打つべきとともに飯も熱いうちに食うべきものだ。
夕刻から焼酎やウイスキーを飲んで後に食べた飯なので、受け止める側の僕の感度は多少低くなっていたことだろう。それでも茨城の新米は頭がしびれる程に美味かった。
御飯と向き合おう…と思い、メシの菜は漬物にした。白菜にしても青柴漬にしても、醤油を少し垂らすとオカズ力が上昇する。これも醤油という調味料によって味覚を育まれた日本人特有の感じ方なのだろう。
しかし、この日の銀シャリは醤油を用いるのも失礼に感じるくらい美味しかったので、醤油をかけない漬物だけで一膳食べた。
炊き立ての御飯の艶、ふっくらとしつつもちもちした米の歯応え、そして甘みと旨味。本来の新米はかくあるべきだ…と改めて新米の美味しさを感じさせてくれる御飯だった。僕は百姓ではないが、こうして新米を食べると収穫の喜びを感じるし、米に限らず各種農産物を育てる百姓への感謝の念を強く感じる。
炊き方などではない。勿論、メシ炊きを習得していない人にはそこへの鍛錬も必要だろうし、それによって御飯の美味しさも変わってもくるだろう。しかし、長年美味しく炊けていた飯が同じ炊き方をしているのに簡単に不味くなる訳もない。要は米なのだ。米の美味さが御飯の美味さを決めるのだ。ちゃんとした新米なら油やら砂糖を足さなくても、ピカピカで美味しい御飯になるのだ…と、よ〜く分かった。
「味覚障害の懸念」は一回の炊飯で簡単に吹っ飛んだのだが、そうなるとやはり「先日の新米の不味さ」は一体何だったのだろうか?と気になって、仕方ない…。