datetaira’s blog

日々の生活で思うこと

山葵を漬ける。

今日は山葵を漬けた。

「乳酸発酵するものこそが漬物だ!」と思っているから「発酵を伴わない山葵漬」は漬物をこしらえるという作業としては僕の中では格下の作業なのだけど、その美味さ(…というか僕の好みなだけなのだが)においては、一番好きなものではないかという食品である。

もう何度もこのブログに「山葵漬」のことを書いているのだけど、山葵に接することは僕にとっては胸が高まることなのだろう。何度、漬け込み作業をしても、そしてその様子を何度こちらに書いても飽きないものだ。要は「山葵が好き」なのだ。

小さな根っこも付いた山葵なので、根の部分の皮を剥いて細かに刻む。少し大振りのもの(写真だと左奥のもの)はおろして食べるとよいと思い、それらはよけておく。

刻んだ山葵のチビ根っこと根に近いボキボキの茎を刻んだものを酒粕に混ぜ込む。塩も足す。

ただそれだけ。

数日、置いておくと塩と酒粕と山葵が馴染んてきて、山葵からは強烈な辛さも滲み出てくる。本当にそれだけの作業だから、偉そうに「山葵漬を仕込みました」というのも憚られる。

しかし、単純な作業だからこそ素材の良し悪しに頼るところは大きく、摘んでからしばらく経ったもので作ると当たり前のように大して美味くもないものが出来上がる。山葵漬の美味さは何にしてもイイ素材を手に入れることに尽きるように思う。その点では伊豆に近い沼津というところに住んで本当に良かったと思っている。

葉っぱと茎は醤油漬けにする。

僕の住む静岡では「粕漬け山葵」こそが山葵漬というように捉えられているのだけど、僕自身は「醤油漬けこそが山葵漬」だと思っている。僕の田舎は山口県の山間部にあるが、そのあたりでは「粕漬けの山葵漬」なんて見たこともなかった。

まあ、僕は高校生までしか山口に住んでいないので、自分で飲み屋に行くようなことなどもなく母親が支度したものばかりを食べる生活を送っていたので、本当に山口県民が粕漬け山葵を知らないか?はよく分からない…。

静岡に過ごすようになり、駅弁のようなものに小さなポーションに入った山葵漬(当たり前に粕漬け)に遭遇した時には、一口食べてみて大抵残していたものだ。そんなことを懐かしく思い出すほど、今の僕は普通に粕漬けの山葵漬も食べる。

しかし、漬物(と呼んでいいのか、未だに疑問を抱いているが…)を作るという点においては、圧倒的に「醤油漬け山葵漬」を作る方が面白い。とにかく、難しいのだ。

もう25年くらい、時期が来ると山葵を醤油に漬ける作業を楽しんでいるが、その勝率は8割くらいだろうか…。いや、9割くらいは美味しく漬けられているか…。

しかし、10回に1回くらいは大して美味くもないものが出来てしまったりするし、なんと言っても素材の山葵自体が安くはないのだから「鼻腔をくすぐるどころか、嗅覚と視覚を奪い取る」ような辛味を持たない山葵漬に仕上がってしまった時の落胆は…、そりゃもう思い出したくないくらいにガッカリする…。

今回の山葵は天城で買ってきた。

産地の道の駅で売られているものは、そこらのスーパーで買うものとは鮮度が違う。そして値段も違う。山葵を買い求めたところの近くでは「秋の味覚、モクズガニ!」との張り紙も見かけた。

山葵にズガニ。綺麗な水の流れる山間部の田舎ならではの食材だ。僕の田舎も天城ほどの産地ではないが、山葵やズガニに接することが出来るようかド田舎だった。こうした原体験が山葵への執着の源になっているのだろう。

そんなことを考えながら車を走られていると一つの地元スーパーの看板が目に入った。

大地讃頌」!

中学3年生の時に文化祭の合唱コンテストで歌った歌だった。なんとも懐かしくなり、一度は通り過ぎたのだけど、どうしても店に入ってみたくなり引き返して入店してみた。

田舎町で地元の食材を仕入れ、他所からも良さげなものを入れて家族経営で店を仕切っている…という感じの昭和スタイルの零細スーパー。しかし、そこに並べられているものはなんだか誠実なものばかりのように感じた。

僕が田舎の出身であり、過剰にノスタルジックな昭和スタイルを好むからなのだろうけど、食材を大切に扱いたい…。大地を讃頌せねばならん!と言うのは大袈裟過ぎるのだけど、田舎産地の食材とそれを育む田舎を大切にしたいと感じさせられる出来事だった。