datetaira’s blog

日々の生活で思うこと

食べ慣れぬもの

50歳にもなってくると、だいたいの食物を食べたこともあるし、むしろ未経験の食物というのもそんなになくなってくるのだろう。

…そんなふうに思っていたことが昔はあったが、ある程度の年齢までは自然に経験の幅も広がっていくが、年をとったからと言って経験の幅など自動的に広がるものでもなく、今の僕には食べたこともない食材が意外にあることにも気が付いた。

そんな食材のひとつが「マコモダケ」だった。

この食材の存在はなんとなく知っていたが、特に興味を抱くこともなかった。先日、御殿場の農協に行った時に「炒め物、味噌汁、天ぷら、何にしてもおいしいよ」みたいな宣伝文句を見かけて買ってきたものだ。「なんの料理にしても、簡単でそりゃ美味いよ!」と僕の心に働きかけてきたのだ、このマコモダケが。

どこかで何かの料理を食べる機会があり、それを自作してみたいから、初めて接するものを買ってくる…というようなことも極稀にある。しかし「そうした料理先導」ではなく「食材先導」で、どんな料理をすればいいのか分からないものを買ってきたのもものすごく久しぶりのことだった。

いきなり包丁で切り分けて炒め物にしようかとしたのだが、手に持ってみたマコモダケはガサガサの繊維質だった。そこらの草よりも硬く、簡単に食べられるもののようには思えなかったので、不本意だったがネットで調理法を調べてみた。

僕は「レシピに基づいた料理」というのが好きではない。そうして作った料理は「自分の力で作ったものではなく、レシピに指南されただけの実力とは無関係なもの」のように思うから。

全く同じことが、僕が趣味としているラッパにも言えるのだが、こちらはレシピ(楽譜)をなぞることで手一杯な有様…。譜面など全く見ずに自らのフィーリングだけで演奏したものがバチッと決まるような「アド・リブこそがその人の音楽力」だと思っているのだけど、こちらは全くそのような理想には近付けずにいる…。

趣味としてたまに接するラッパはともかく、食事というものは日々の生活の根幹をなすものだし、そこでの「僕が僕の為に作る料理の好みの味」なんて、自らの感覚頼りで自分の中のベストポジションに落とし込みたいのだ。自分の好みくらい、味見などしなくても目分量の料理でバチッと決めたいものだと思っている。

 

さて、話をマコモダケに戻す。

マコモダケ」なるものは実際に触ってみるまでは、なんだかみずみずしいアスパラガスのような茎を食べる食材…なのかと思っていたが、初めて触れてみたソレはサトウキビの茎というかガサガサのトウモコロシの葉っぱというか、とにかく本当に可食部分があるのか不安になるような手触りだった。勝手にアスパラガスのようなものかと想像していたこととの落差によるものだ。

硬そうな表皮を剥いていくと意外に可食部分は少ない。見た感じは軟白独活のようにも見えるが、その皮は硬くて剥きにくい。

下拵えしたマコモダケは薄めに切ってバターで炒めた。炒めたというよりもバターを吸い込ませるようにじっくりと火を入れる感じ。ソテーではなくてポワレに近いような調理だ。…って、ソテーでもポワレでも「バターで炒めた」という表現でいいとも思うのだけど…。

肝心の味は僕好みではなかった。パキパキ、シャクシャクしたような歯応えを期待していたからだろう。僕の脳内で展開されていたマコモダケの味はほぼアスパラガスのようなものだったのだろう。

アスパラガスとは違う!みんな、気をつけろ…と断言するのだけど、ならばどんな味なのか?と考えてもすぐに例えは出てこない。香りやクセのない独活…そして独活よりももっとシワシワした歯応えだ。…って、その時点で独活とは程遠い食物だ。

形状や名前から筍みたいなもの?それともキノコみたいなもの?とも想像したりもしたが、それらとも違う「マコモダケ」の味わいだった。

こうした経験をすることはこのところめっきり減っていた。敢えてよく言うなら、安定の食生活とか美味い自炊献立の確立…みたいなことになるのだろう。しかし、それらは献立のマンネリ化とか好奇心の欠如とも捉えることが出来る。

慣れぬものへの好奇心は忘れてはならない。新鮮な気持ちで日々を過ごすためには「パターン化」は避けねばならん。そんなことを思うのだけど、マコモダケを買うことはもうないと思う。