datetaira’s blog

日々の生活で思うこと

芋粥

9日間もあった冬休みも今日で終わり。

今朝の粥には田舎の畑(庭の片隅)で育てたという蕪と大根を加えた。

数日前、スーパーに行くと正月早々から七草粥セットみたいなのが売られていた。小さなビニールパックに入っていてちゃんとした値段がする。中に入っているのは切れっ端のような大した野菜でもないのに。

こういうのを見ると「季節行事が単なる商業機会」に扱われていき、賤しいものに変わっていくように感じる。草を加えた粥を食べることは何も賤しくなどない。これに乗じて「大した価値のないもので儲けてやろう」とする流通業者は賤しい…どころか卑しいくらいだと思うのだ。

さて、今朝の粥の話に戻すが、スズナスズシロが入っているから「二草粥」になるのだろう。今日はそんな粥に芋を足して食べた。大晦日に揚げて食べ残していた薩摩芋の天麩羅と自然薯のとろろだ。

僕が通った小学校の給食ではたまに芋粥が出ていた。薩摩芋を切ったやつが粥に入ったもの。こうした「給食による芋粥インプリンティング」があったので、後年、「芥川の芋粥が甘く煮たお菓子のようなもの」だと知った時には驚いた。

自然薯のとろろは昨年、形の悪いものが安くに売られていたので買っていたものだった。買ったもののなんだか食べる気にもならずに3週間くらい過ぎていたのだが、料理しようとしたら半分くらいが傷んでいた。結局、安い芋ではなくなった。

この芋は皮を剥かずに摩りおろしたが、これがまた失敗だった。テレビで自然薯農家が「芋は皮を剥かないほうが香りが美味い」と言っていたので、よく洗ったものをそのままおろしたのだが、これが泥臭かった。「野趣溢れる味」なんて言って喜んでいられるレベルではなかった。

泥臭さと渋みに満ちたとろろ汁を粥に加えて食べたが全く進まない。無理やり啜って、その後で食べた薩摩芋の美味いこと。そもそも薩摩芋も好きではなく、子供たちのリクエストで天麩羅にしだけ(それも揚げてから数日経った残り)のものだったが、自然薯の不味さとの高低差のおかげでとても美味しく感じた。

食後、ネット検索してみたが「皮が味を損ねること」について特に目立つ記述は見当たらなかった。むしろ皮ごと食べることが推奨されているくらい。不思議だ…。

残ったやつはどうしよう?捨てるのも惜しい。しかし、もう食べたくない。結局、随分と高い芋になりそうだ。