タイトルにさぞかし立派っぼい「音楽」という言葉を用いたのだけど、文字が示す通り「音の楽しみ方」について思うことを記す。
「音を楽しむ行為」なんて、本当に人の生活に身近にあるものだし、その楽しみ方は千差万別だし、人がそれぞれに楽しく音に接すればいいと思います…と言い切ると、この先に僕の思うことも書けなくなるので、僕自身が僕の生活において音を楽しむことについてここに書く。
僕は若い頃にラッパを吹いていた。それは中学生〜20代半ばくらいまでのことだ。数年前に随分と久しぶりにラッパを再開してみたのだが、それまでの20年くらいの音楽は「聞いて楽しむこと」ばかりだった。それが「演奏することを楽しみたい」と思うようになると、それはそれでなかなか困難も多いものだと感じさせられている。
沼津に越してきてからは本当にラッパを練習する時間が減っていた。簡単に言えば「バンドや楽団に属していないのだから、ラッパの練習において何の外的要因もなくなった」からである。
「外的要因がなくなったから、ラッパの練習時間も減少する」なんて、よく考えたらおかしな話だ。何かの組織に属して、そこに対するモチベーションというかノルマみたい
なものがなければ僕はラッパの練習をしなくなるのか?…なんて思ったのだけど、恥ずかしながらまさにその通りで、人との練習時間がなくなり本当に自由になると、その他の趣味をていてラッパの練習時間はすっかりと減ってしまっていた。
夏が終わる頃から「これではイカンのだろうね…」なんて思い、一人であってもラッパの練習に時間を割くようにしている。
行動力がないから、未だにコンボを組んだりソロで人前で演奏する機会はないのだけど、僕の深層心理の中には「この練習はいつかライブで披露するため」という野望は残っているように思っている。
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さて、こちらの文章は今(2025年4月24日)から180日くらい前に書いていたものだ。180日と言うと一月30日で換算するなら大体半年前のことだ。
そこから半年経った今現在に思っていることを以下に記す。
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先週の土曜日は後輩2人が我が家に遊びに来て夕方前からメシと酒を振る舞っていた。楽しい時間だった。そして、よく飲んだ。
翌日は昼からフルバンの練習があったので電車で静岡に出掛けた。よくよく考えると仕事で静岡に行くことはあるがプライベートで静岡に足を運ぶことも滅多にないし、そもそも休日に電車を利用することも滅多にない。プライベートでは極めて狭いエリアだけで生活し、その交通費も発生しないような省エネ生活を送っているのだった。
久しぶりに乗った休日の電車は僕にとっては「なんだか特別感」があったし、一瞬どこかに旅に行くときのようなワクワク感も感じた。
そしてこちらも久しぶりとなるフルバンの練習はなかなかハードだった。素人と呼ぶと素人に悪いくらいジャズとは縁のない人たちが集まった練習だから、レベル的には全くハードではない。それは練習と呼ぶよりも集まって配られている楽譜をそこで一緒に演奏しよう…というだけのもので、特に音楽的なアプローチなどの指示や練習もないものだった。
なにを仕上げるために、その他になにを注意したらいいか?など何も共有されないまま、何のためにやるのか分からない合奏が繰り返されただけだった。コンマスの能力がないのだ。そもそもジャズを聞いたことがあるのかすら怪しい人物だ。
今回はライブのトラを頼まれ、イイ顔をして引き受けてしまったものだから参加するが、練習に参加してすぐに加入したことを後悔した。…打診があった時に毅然と断らなかった自分が悪い…。
しかし、日曜日の午後にミュートをせずに延べ3時間くらいラッパを吹くのは本当に久しぶりのことだった。唇を酷使するという筋トレみたいなものも久しぶりだった。好きなタイミングで好きなように吹いてみるだけのセッションの個人練習では「無理をすること」などほとんどない。
ラッパ演奏において耐久性は本当に必要なものなのだが、これには筋トレを続けるような努力が必要だ。それがダルいからちょっとの練習でカッコよく見えるような「映えフレーズ」をさらりと繰り出せるように練習していたりもする。
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……と、今週に入ってから「ラッパの練習」のことを書いていたが、まとまりのないダラダラとした文書にしかならない。
要は「カッコいい音楽をやろう」という志のないものとの時間は本当に無駄だし、その時間は音楽でも何でもない筋トレみたいなものやっているだけだった…と思った。