グレープフルーツという果物が好きだ。
僕は日々の生活において滅多に果物を食べない。自分では「滅多に食べない」とも思っていなかったのだけど、ならばいつ自宅で果物を食べたのか?と思い出すと「そうした記憶は随分前のこと」になるので、やはり滅多に果物を食べていないということを再認識した次第…。
頻度で判断するなら「僕には果物を好きだと語る資格もない」のだけど、たまにしか口にしないものであっても、やはりグレープフルーツのことを好きだと思うので今日はグレープフルーツのことを記す。
先日、東京に出掛けて大酒を飲み、その後は息子の下宿に泊まって朝からラーメンを食べに出掛けたり、その後も一人でカレーライスを食べたりと「二日間で鯨飲馬食を体現する」生活を送っていた。
沼津に帰宅して夜になり、なんだか腹が減ったのだけど「麺とかメシ」を食べることに罪悪感を感じた。そりゃそうか…。既にカロリーの高いメシをしっかりと摂取していたのだから…。
そんな訳で、空腹感と罪悪感を同時に感じた僕は冷蔵庫に長らく放置されていたグレープフルーツを食べることにした。
そもそも「それまでにたっぷり食べている」のだから、何も食べないことの方が健康的なのだが、これを我慢出来ないところが僕らしさなのだ。だから、太る…。
こういう経緯や葛藤のようなものもあったが、久しぶりに食べたグレープフルーツは実に美味しかった。エグみと言うか苦味…これは「美味しい」ということを表現するのには反する形容詞のようにも思うのだけど、僕がグレープフルーツを口にして真っ先に感じることだし、これを期待してコイツを食べるのだから、間違いのない「グレープフルーツの魅力」なのだろうと思う。
そうしたエグみと苦みに続く酸味、そして甘み。こうした味とともに歯応えとして感じる他の柑橘類にはない果実の柔らかさ。こうしたものが一体となってグレープフルーツの美味しさを構成しているのだろうけど、「そんなことを考えながら食べていること自体が無粋なのだ」と思った…。
これは何に対しても理屈や理由を付けたがる僕の良くないところだと分かっている…。だからこそ、その背景や構成要素を考えるよりも早くに、それこそ貪るようにしてグレープフルーツを食べた。
確かに腹を空かせていたが「そんなに急いで食べなくてもいいのに…」と人から心配されるような「餓鬼のような食べ方」をしていたようにも思う。そして、そうやって食べたグレープフルーツのみずみずしさは、僕の生活を潤してくれているように思った。
そんなことを考えていると「先月、息子が果物をとても喜んでいたこと」を思い出した。
田舎の祖母(彼にとっては祖母だが僕の母親である)から多量の夏蜜柑が彼に贈呈された。実家の両親の知り合いのウチに夏蜜柑が植えられており、それを「好きなだけ摘んで持って帰ってちょうだい」と言うような両親との交友があることを僕も昔から知っていた。
僕も小学生の頃、そこのお宅に出向いて好き放題に夏蜜柑を採らせていただいた記憶がある。そんな環境を我が一族で一番喜んでいるのが僕の長男なのだ。
一般に「蜜柑などの柑橘類を食べる適量」というのは日に一玉とか二玉だろうか?グレープフルーツを好き…と公言しながらも、そいつを年間で5玉くらいしか食べていない僕には信じられないのだが、息子は日に三玉くらいの夏蜜柑を数週間楽しんだそうだ。
彼の祖母によると50玉の夏蜜柑を「いくら好きって言っても、これはやり過ぎだろう…」と悪ふざけのような気持ちも持ちながら段ボール箱いっぱいに詰めて孫に送ってみたそうだ。
そんな祖母からの「やり過ぎの感のある贈りもの」は孫である僕の息子には「全くやり過ぎてもおらず、なんなら足りないもの」として受け取られ、彼はこの数週間は本当に幸せな毎日を過ごしたそうだ。
贈呈者でもない僕に対して「やっぱり、果物を好きなように食べられる生活っていうのは本当に豊かな生活だと思う」と力説してきた程なのだから。
…そんな「柑橘好きな息子」のことを思い出しながら、僕も「果物を食べる生活って豊かだよなあ…」なんて思い出しながら、グレープフルーツを貪った。
「息子の言う豊かな生活」というのは果物を躊躇せずに買える経済力のことなのだけど、僕にとっては「そうした経済力問題よりも、季節毎の甘露に憧れている生活こそ『直向きに幸せを求めている』という点で、本当に豊かなのかも知れない生活なのか」とも考えた。
あっ、今回のブログタイトルは本文とはそんなに関係ないものです。グレープフルーツのことを考えていたら「坂本慎太郎氏の名曲」が思い浮かんだので付けただけ…。ゆらゆら帝国好きな人にはスミマセン。知らないなら是非聴いてみてください。イイ曲だと僕は思うから。