昨夜は久しぶりにカレーを作った。
カレーライスという献立は、気合を入れてスパイスを炒めるところから始めるものもあれば、なんでもいいから出汁の味のついた残り物料理を「最後に行き着く再生料理」としてカレーにすることもある。
後者の「再生料理の代表格」のようなカレーは割と頻繁に作る。このブログを見返してみると、この一月以内、梅雨が始まる頃にも「お客には出せない下宿学生のメシ」のようなカレーを作っていた。
昨夜はスパイスやら大蒜、生姜という香味野菜を炒めるところから始める「比較的、ちゃんとしたカレー」を久しぶりに作ったのだった。
前述のとおり、残り物料理を利用した「最終的にカレーにして食べる料理」というものには結構な頻度で接しているように思うが、こうした再生料理としてのカレーを食べていると、ローマではないが「全ての(余り物の)道はカレーに通ずる」という言葉を思い浮かべる。
「素材の良さを大きな加工を施さずに素直にシンプルに活かすこと」を基本とする和食とは真反対にあるような足し算の美学…そんなものがカレーにはあるように捉えている。
なんでもかんでもブチ込んで、なんだかよく分からないけど美味しく食べられるものにする…という僕の「再生料理カレー」には足し算もクソも、そもそも美学なんて言葉を使うのも間違っているようにも思うのだけど…。
昨夜はテンパリングしたスパイスにイタリアンパセリをドサッと加えた。パワーを持ったスパイスの前ではイタリアンパセリの芳香など雑魚キャラような存在感なのだけど、ベランダ菜園のパセリどもは僕の食卓の都合など全くお構いなしに育つので、育ち過ぎたそいつらを摘み取って加えたものだ。
…と、久しぶりのスパイスカレー作りととともに飯を炊いた。これも麦シャリという特に珍しいものでもないが、昨夜は米と麦の割合を4:6という麦中心の飯にした。
立原正秋の影響により、麦シャリには長らく接しているし「麦の含有量が多ければ多いほど男らしい」なんで思っている時期もあった。しかし、麦と米を比べれば圧倒的に麦含有が多い飯は不味い。ポロポロだしバサバサだし…。
でも、カレーと一緒に食べるのならばインディカ米の飯もあるし、そもそも最近、古古古米とかの「これまでは商品価値などなく、美味いわけなどないと評されていて、尚且つ家畜用の米」みたいなものを早朝から列を作ってそれを入手することに喜んでいる人たちが食べる飯と比べれば、真っ当な米を混ぜて炊く麦シャリの方が幾分か美味しいに違いない…と思いながら、麦シャリを炊いた。※ポロポロ感が増してもよかろうと思い、飯には米油を垂らして炊いたものです。
さて、カレーも出来た。そして飯も炊けた。
…が、昨夜は酒を飲みながらそんな料理を楽しみ、作っている間にも枝豆を茹でて食べたりしていたものだから、出来上がった頃には「カレーライスを食べる腹のキャパ」はとっくに失われていた。カレーは明日なのか、その先に食べよう…。
そんな訳で、僕は炊きたての麦シャリを茶碗に軽くよそい、そこに生玉子を落として玉子かけとしてスルスルといただいた。
久しぶりに炊いた麦含有の高い飯はじっくりと弱火の時間を増やして炊いたのでふっくらと炊き上がっていて不味いものではなかった。しかし、「銀シャリならこの生玉子ももっと美味かったろう…」という感想は拭いきれない微妙な不味さだった…。