引越す直前3日間の夜は送別会が続いている。
本心かどうかを別にして、たとえそれが社交辞令的なことだとしても送別会を開いていただけることにはとても感謝する。僕なんかのために貴重な時間と費用をかけさせてしまって申し訳ありません…そんな気持ちにもなる。
送別会の日程打診をしてもらった時にはとてもありがたく思うのだが、数日それに対して申し訳ないような気持ちに移行していく。すると「なぜ俺が申し訳ないような気持ちにならなくてはいかんのだ…。こんな気持ちになるのが嫌だから、固辞しておけばよかった…」みたいなことも考えたりする。
さて、そんな送別会から帰宅してベランダの山椒の木を見てみた。先日、大きなアゲハ蝶の幼虫を見つけてからは「仲間と認識したそいつ」を気に掛けている。

…と、枝ばかりになった山椒に緑色のよく肥えたアイツの姿が見えなかった。もしや…とも思ったが、そんなもしものことを否定したい気持ちがあったので「薄暗いし、よく見えなかったり、もしかしたら蛹になる支度を始めているのかもしれん…」とその夜の確認は打ち切った。沢山の酒を飲んでいたこともあるし…。

そして昨日の朝、明るくなったベランダで再び幼虫を探してみた。山椒にはわずかの葉っぱが残っているだけで、よく肥えたアイツはやはりいなくなっていた…。
過去に何度も大きなアゲハ蝶の幼虫が鳥に連れ去られた経験があった。今回もそれが少しだけ心配だったが、これまで鳥の眼を逃れてきたのだからもう大丈夫だろう…と僕にとっての都合のいい解釈があった。
トラブルの大半は「それぞれがそれぞれにとって都合のいい解釈をすること」が原因だ。誤解を生まない明確な表現での連絡、こちらにとって都合のいい期待、これらを除くようにすれば殆どのトラブルは回避される。
鳥に捕まることを少しでも心配したのだったら、山椒を鉢ごと室内に入れておくべきだったのだ。しかし、それももう遅い…。

よく肥えたアイツは僕の山椒を好き放題に食べて、一緒に東京に引越しようとした3日前に姿を消した。ようやく秋風が気持ちよくなった時に、吹け抜けていく秋風とともに去っていったのだ。
アイツが食べ尽くした葉っぱのない枝を見ると淋しく思う。もしかしたら、どこかでそこら辺で蛹になっていて欲しい。東京には一緒に行けないが、生まれ故郷の沼津をのびのびと羽ばたいていてくれれば、どれ程よいことか!
別に「東京に行った時の奴のメシの心配」なんかしているよりも、日々を生き抜いて蝶になるためのことを心配さてやるべきだった…と今更のように思う。
いずれにしても僕の山椒の葉っぱはそんなに必要なくなってしまった。引越の邪魔になるのだ今夜あたり、幾分かの枝を剪定しようと思う。