datetaira’s blog

日々の生活で思うこと

鶏料理

昨日は予てから決めていた忘年会だった。舎弟と息子と僕の三人、まあ親戚の集まりのようなものだ。

数ヶ月前かは今年の忘年会は鶏を存分に食べようではないか!と決めていた。この「鶏」というのは築地の宮川で買ってくるものである。

宮川の鶏は特別に高いものでない。鶏なので鴨のようなうまさがある訳もないが鶏としては特別に美味い。人気があるのも頷けるし、暮れになると御使い物に買い求める人も増えてきて長い行列が出来る。ならば、本当の年末でもなく12月半ばより前に忘年会をやってしまえば比較的容易に宮川の鶏を入手出来るのは…と以前から企てていた忘年会なのだった。

なんの部位をどのくらい買うかという打ち合わせを事前に済ませておき、肝心のブツは舎弟が手に入れてから昼過ぎには我が家に到着した。

まずは漬物やら鮎の甘露煮で酒を飲み始め、笹身のたたきを刺身のように食べる。

梅酢と山葵醤油で食べる新鮮な刺身が不味かろうはずもない。特に高価でもなく味のことを鑑みれば安価とも言えるような鶏は本当に美味しく酒も進む。

レバーを塩焼きにしたり、砂肝をバタ焼きにしたり、更には鶏の唐揚げや鶏鍋を食べるという「とにかく鶏づくし」の献立なのだが、部位も違えば味付けにも変化を持たせたので全く飽きることもなく僕たちは舌鼓を打った。

記録としてこの日の献立を記しておくが、漬物(白菜漬、糠漬け胡瓜・人参)、鮎の甘露煮山椒添え、ナメコ納豆、笹身のたたき、レバーの塩焼き、砂肝のバタ焼き、鶏の唐揚げ(胸)、レバーの大蒜オイル煮、鶏の唐揚げ(腿)、湯豆腐〜鶏鍋、鶏の唐揚げ(砂肝)、グラタン、鶏中華蕎麦。

自分で書いていてもよく食べたものだと思う。…って、僕はひっきりなしに料理をしているので、それぞれを味見程度に口にしたかしないか?くらいで作った料理の大半は舎弟と息子が食べたのだった。

一夜明ければ鶏冠や嘴が生えて、三歩歩くとものを忘れるようになるのではないか?という程の鶏づくし。実際に舎弟は「今日は鶏鍋を食べていない!早く食べさせてください。」と錯乱したようなことを言い出す始末。その2時間くらい前に美味い美味いと食べているのに…。

…と舎弟は安定のポンコツ具合だった。まあ、これは鶏の過剰摂取による痴呆ではなく、酒に弱いくせに酒好きな奴が宴会の度にいつも陥る「我が家の恒例行事」みたいなものなのだけど…。だから息子も「いつものこと」とばかりに特に驚きもせず、特に笑ったりもせずに接していた。

多くの鶏料理を楽しみ、そのどれもが美味しかったが、とにかくこれは「鶏が新鮮であることの素材力」によるものだ。僕の味付けやら調理方法も無関係ではないが、そんなのは大した手柄でもなくこの日の美味しさの手柄は素材そのものにあるのだ…と強く思った。

昨日の鶏料理の過程でその他に強く思ったのは「胸肉の料理はやり甲斐がある」ということ。昨日は唐揚げとグラタンにしたのだが、とにかく胸肉は火加減が難しく、ヘタな料理だとバサバサと味気のないものになる。

唐揚げを作る時にさっと揚げてしまえば火の通り過ぎを防ぐこと出来る。多少薄めに削ぎ切りにすれば水を少なくすることが出来る。しかし昨日は宮川の鶏に最大限の敬意を払いたかったので大振りのブロック状に切り分けた。

これにより中まで火が通っていくかどうかは分かりにくくもなるのだが、注意深く揚がっていく鶏の音を聞いていれば「ナマの状態が終わり、火が入っていく切り替わりの瞬間の無音状態」に気付く。

昨日はまさにナマの状態から脱却した瞬間の胸肉を舎弟たちに饗することが出来た。それは噛み切れば透き通った肉汁が流れ出て来るし、表面はカリッと揚がっていて、舎弟は前歯の裏が痛くて堪らん…と言いながらも沢山の唐揚げを食べていた。

腿肉を調理する際にも火加減は大切であるが、これは少々荒っぽく扱ったところでだいたい美味しく出来る。勿論、それが腿肉であっても宮川の鶏に対しては細心の注意を払って料理するのだが。

一般には胸の唐揚げよりも腿の方が人気があるし、部位としても腿肉の方が高い。しかし、タイミングを合わせて料理した胸肉には腿肉を凌ぐ美味さというか楽しさがある。

まだ昨日の残りの肉が冷蔵庫にある。これらを料理するのも楽しみではあるが、やはりちょっと飽きた。でも、本当に楽しい忘年会(の支度の料理)だった。