この間の秋に東京に越してきて、それまでに住んでいた沼津とは比べものにならないくらいに文化や物質的には恵まれた環境で生活している…と思っていた。
一般的な見解ではそのとおりなのだろうが、僕は文化的な刺激に特に接することもなく、物欲を発散させることもなく「都会に住むただの田舎者」として過ごしている。
自分でも驚くのだが、大きな街を歩いて綺羅びやかな店に入ってみてそこに売られているものを見ても特に欲しいものがないのだ。
①普段の生活である程度欲しいと思うものは揃っている。
②物が増えてそれの置き場に圧迫されることが疎ましく思うようになった。
③単にジジイになってきて、物欲が薄れてきた。
④欲しいものがあっても、それにお金を使うのが惜しくなってきた。もっと他に金の入り用があることが不安になった。
だいたいこれらの①〜④で「僕の欲しいものが減ってきた」ということの説明は補完されるのだろう。
自分の財布を気にしないならば欲しいものなんて山ほどある。クラシカルなクルマとか単車、軽くてファッショナブルなコートとかビンテージのデニムとか…。
しかし、それらを手に入れるためにわざわざ自分の財布を傷める気にはならないし、それらの代用品やらそれらに向かう物欲を逸らすための材料は既に揃っているのだった。
都会生活ではモノを買わなくても、美味しいと評判の店での食事やら、良質な音楽を楽しめるライブなど田舎では味わうことも出来ない経験先は沢山あるのだけど、こうしたものにも特に接するこもないまま、3ヶ月が過ぎた。
僕はこの先ずっと東京に住むことはない…と思っている。これは僕の希望云々に関わらず、仕事の都合で今は東京にいるだけなのだから、そのうちに仕事の都合で東京を離れると思っているからだ。
ならば、東京ならではの体験をもっと楽しむべきだと思ったりもするが、僕にとっての今回の東京生活と言うものは「息子との二人暮らし」に尽きているのだろう。このあたりはもう少しシフトチェンジする必要があるかも知れない。
さて、僕の物欲は随分と失せた…ということを書いたが、大切にしているものを育てていきたいという意欲はしっかりと残っている。
このブログでも折に触れて書いているのだが、先日ジージャンを洗濯した。パリッと糊を効かせて春夏秋冬と着込んで味が出てきたところを洗濯するのだ。

染料であるインディゴが洗い流されないように裏返しして洗濯して、洗濯したものにベタベタに原液の洗濯糊をつける。パリッと乾いたジージャンはハンガーから下ろしても自立する程の固さだ。

裏返しにしたものを裏返しにする(表返し?)と洗濯前よりかは少しインディゴは脱色しているが、ガチガチに糊付けしたジャンパーには良い感じで生活皺が入って、イイ風合いになってきている。これを見て一人ニヤニヤするのだ!ほぼ変態だけど…。
ガチガチに固まったものをこれからも着倒して更なる味出し作業をしていく。糊を過剰に効かせることの利点は「味を出しやすくなる」ということのほかにも「僕の皮脂汚れは糊のうえに付着していて生地には浸透しにくい。洗濯すれば糊とともに汚れも落ちていく」という2点だ。
ジージャンを洗濯してそいつを糊付けする度に、僕は同じようなことをこのブログに書いている気がする。マンネリと言えばマンネリな生活なのかも知れないが、これは僕にとっては大切な年中行事でありジージャンの成長を見守る儀式のようなものなのだ。
こうしたことに没頭していると新しいものを買うどころではない…なんて具合になる。もっとも⑤としての「今持っているものを大切に使って、そいつを育てるべきだから」という理由が僕の物欲事情には大きく影響しているように思う。