datetaira’s blog

日々の生活で思うこと

僕とAI

1週間前のことになるが、息子と酒を飲んでいた勢いでAIで遊んだ。

どういう流れでそうなったのか明確には思い出せないが「ミュージシャンの過去の創作や演奏データをベースにしてその人っぽいものをAIが作るのは容易いことだ」なんて話をしていたことが発端だったように思う。

そこから数種のAIアプリで作ったもの(作業はAI、指示は息子によるもの)が2/28にこのブログにあげた「旅についての文章」である。

■旅の味噌汁と継続性

このブログ「datetaira’s blog」の、日常の細部を丁寧に描きながら内省を静かに織り交ぜる文体——自炊の過程、気候の移ろい、習慣の継続とその脆さ、さみしさと期待のバランス——を参考に、旅に関するエッセイを書いてみました。まるでブログの続きのように、僕(datetaira風の視点)で綴っています。

■旅の余韻

ブログ記事(https://datetaira.hatenablog.com/)を参考にしながら、旅にまつわるエッセイ風の短い文章を書いてみました。ブログでは旅の具体的な記録よりも日常の細やかな感覚や食の記憶が丁寧に綴られていますが、それを旅の文脈に広げていくと、こんな風にも読み取れると思います。

必要なら、この記事をもう少し詩的に, 旅の具体的な体験談風に, あるいは エッセイとして構成を洗練した形にもできますよ。どんなスタイルが好みか教えてください!(例:「旅の始まり→出会い→変化→帰路」の物語構成など)

 

■遠い街の、いつもの朝

「datetaira's blog」を拝読しました。日常の何気ない風景や、季節の移ろい、そして自身の内面と静かに向き合うような、落ち着いた筆致が印象的です。特に、自分の「生活のサイズ」を大切にされているような視点を感じました。そのスタイルを参考に、旅をテーマにしたエッセイを執筆します。

 

いや〜、スゴいね!斜体は各文章の作者であるAI先生からのコメント。当たり前のことだが、僕が書いたものではない。

僕が書き綴って全世界に公開している生活記録(このブログのことです…)なのだが、そこに記した出来事や考え方をなぞって(単にコラージュして貼り合わせただけのようなものもあるが…)、あたかも僕が旅に出たかのように文章を作るのに驚いた。

酒を飲みながら息子がAIに「父のブログをみて、旅について何か書いてみて」と指示をし、その文章を呼んで2人で大笑いしながら酒を飲んだ。

「ここはまさに本人がブログに書きそう」とか「こんなに格好つけた表現は本人の語彙にはないはずだ」とか「単に過去の出来事を持ってきただけの文章じゃねえか!」など、感心することもあれば呆れることも満載の「笑える文章」だった。

新しいものには滅法疎いのでよく知らないが、僕が目にする何ということのない文章もAIで作られたものだったりするのだろう。

そう言えば、仕事で接する各種プレゼン資料もAIが作ったやけに綺麗でカッコいいものが増えた。命を削る思いで作り上げられてきた小説やら音楽も、その創作者風のコピー作品は簡単に作られている。

プレゼン資料にしても創作物へのオマージュ作品にしても、カタチとして出てきたものはよく出来たもののように思えた。「AIによるもの」という申告がなければ、全く満足するものなのかも知れない。

タイパとかコスパという言葉の本質はきっと僕も好きなものなのだろう。そりゃ楽して宿題を仕上げたいし…。しかし、その一方で「その人本人の手作業が加わらなくとも、その人本人みたいな作業がなされること」をさみしく感じた。

これを書いていて思い出したのだが、息子とAI遊びに興じるきっかけとなったのは「今現在の人の手が介在した仕事の多くが近い将来にはAIにとって代わられて、そのうち仕事や作業における人という存在の必要性はなくなるはずだ」という話に端を発したのだった。

宿題片付け係として、人を楽にしてくれる道具の発展はやはり便利だと思う。でも、創作物というものは創作者の手作業で行われたものに僕は接したい。

人による気分の変化とか調子の悪さ、逆に調子の良さを含めたバラツキにも「その人ならではの良さ」もあるだろうから。…なんていうのは情緒的過ぎるだろうか…。しかし、「実際の人間が手を加えて作業しなくても出来上ったもの」に喜ぶというのもさみし過ぎるように思う。

…って、加工食品の多くは機械化されたところで作られた工業製品であり、それを喜んで食べる人も多いのだから、世の中の多くの人にとってはAIによるものであれ、人の手によるものであれどっちでもいいことなのかも知れない。

子供の頃に読んだ「ドラえもん」の1シーン。これがそのまんま現実になっていると思うとすごいことではあるが、喜ばしいことでもないと僕は思う。