お土産を買うということ

三連休のお陰で、肉体的にも精神的にもゆっくりすることができ、少し余裕が生まれた気がする。


連休二日目から三日目にかけて、長男が遊びに来た。「遊びに来た」と言っても進路のことや、将来について話をするために呼び寄せたのだから、完全な遊びでもないようにも思う。だからと言って勉強でもないのだから、進路相談といったところだろうか…。


一晩、父と子でいろいろな事を話して過ごし、翌日別れる前に、学問の神の奉られる天神さまへと二人で足を運んだ。春のように暖かい連休の最終日。受験シーズンもいよいよ盛りとなるこの時期の天神は人で溢れていた。

財布から小銭を出して賽銭の用意をして、社殿へと向かったら、それはそれは長い参拝客の行列が出来ていた。

「おい、凄い人だけど、ここに並ぶか?」
「いや、こうしたものは気持ちがあるかどうかだから、離れたところからでもちゃんと拝んでおけばいいんじゃない?」

合理的なことを言う息子の提案を採用して、我々は列の後ろの方から静かに柏手を打ち、学問の神様へのお願い事を済ませた。お賽銭も取り止めた。


列の後ろの方から拝んだのは、単に長い列に並んで長い時間待っているのが嫌だったからではないのだ。息子もそのはずだと思う。

その直前のこと。行列の最後尾に行こうと通路(参道?)に出たら、イカ焼きから焼き鳥からテキヤの数々がずらりと並んでいた。ちょっとしたお祭りを凌ぐくらいの沢山の店が立ち並び、醤油やらソースの焦げた匂いをこれでもかと言うほど漂わせていた。そこに参拝客を含めて、本当にぎゅうぎゅうに人がいた。

ここは神様のいる神社なのか?
それとも何かのお祭りを楽しむ場所なのか?
更に言うと、ここに集まる人たちは本当に学問の神に何かを祈願したい人たちなのか?
単に賑やかなお祭りの場に遊びに来ただけの人ではないのか?

そうだ。ここは由緒のあるテーマパークみたいなものなんだ!娯楽の少ない江戸時代なんかはディズニーランドみたいなところだったはずだったに違いない。そして、その昔から人も集まるところにはお店だって立ち並んでいたはずだ。大きな神社の門前町なんて、どこだってそんなことで形成されたのだと思う。

ディズニーランドに行く人が、お土産で缶に入って無駄に高いクッキーとかぬいぐるみを買うような感覚と出所は同じなのかもしれない。折角、天神にやって来たのだ。お腹がそんなに減っていなくてもなにか食べてみるか。ついでになにか買って帰ろう。折角、学問成就を祈りに来たのだから…。おっ、丁度いいのがあるぞ。…とこんな感じで財布の紐が緩んだ客を狙って、お守りや絵馬が売られるようになったのだろう…と思った。神社や土産物屋に叱られそうだが、そう思えたのだ。


受験生である長女に御守りを買おうかということでやって来た天神だったが、そこを取り巻く人間の商魂をもろに見ることにより、神への敬虔な気持ちが失せた。と言うと間違いか…。そこで拝むだけで十分だろう。御守りにしても、テキヤにしても、更に言うとお賽銭にしても、取り巻きの人間が儲けたいから、その場にやって来た人たちがお金を落としてもよいと思うようなような空気感を作っているだけじゃないか。お土産というのはそんなものなのだろう。

そんなわけで、我々親子は長女への形に残る御守りなどは買い求めなかった。見たり選んだりもしていない。しかし、父と兄は離れたところからではあるが、心を込めて学問の神に神様にお願いをしておいた。何らかの効果があることを期待する。