ソファー

僕の部屋にはソファーが2脚ある。ソファーの正式な数え方を知らぬが、一人掛けのものなので椅子と同様に数えるものなのだろうと思う。

13年前に一人で暮らすようになり、その生活を始めた当初は家財道具も満足に揃わない状態だったので、ソファーなんて高級な家具を買うのは後回しだった。それまでは段ボール箱を何枚か重ねて保温性とクッション性をもたせた僕なりの防寒敷物をラグの下に忍ばせていたりしたので、我が部屋にソファーが導入されたのは画期的なことだった。一人暮らしを始めてから2年くらい経った冬の日のことだ。

この日は子供たちも遊びに来ていて、見慣れない新たな家具があることに彼らは喜び「ソファーとその空箱」を使って「テレビごっこ」みたいなことをしてはしゃいでいたことを思い出す。

一度に2脚買うほどの馬力もなかったので、1脚を大切に使って過ごしていたが、心地の良いものだったのでその翌年か翌々年に2脚目を手に入れた。

随分と気に入っているソファーであるが、座面の拭き掃除などはするものの本格的な座面の汚れを落とすような掃除は購入してから10年くらいの間、一度もしたことがなかった。10年のうちに蓄積した汚れというのも相当なものだろう…と思い、本格的な掃除に取り組むことにした。

バラした座面をお湯を張った風呂に浸け「オキシなんちゃら」みたいなやつで汚れを落とす。実は2週間前に既に1脚の作業を終えていたのだが、注意書きによると「オキシなんちゃら」はウールには用いないで…とのことだったので、ちゃんとヨゴレが落ちるのかどうなのか?もしかしたら座面に相当な損傷を与えるのではないか?と心配しての作業だった。

結果的には特にソファーが傷むこともなく、数年に渡る汚れもそれなりにきれいに取り除くことが出来たようだ。ただ、この作業を行った数日間は雨が降り続いていたので、なかなか座面が乾かないのが難点だった。

そんな訳で「梅雨が始まる前にもう1脚の掃除の済ませてしまいたい」と思い、残したもののオキシ漬けに着手した次第…。今夜から明後日まではピーカンではなさそうだが、雨も振らない予報となっていた。

 

僕のソファーは特に珍しいものではないが、沼津では売られていない。結構前に調べていて知ったことでは「隣町の富士にはこのソファーを扱う店」もあるようだった。

先日、仕事で富士に行く用事があったのでこの店に立ち寄ってみたが、特に収穫はなかった。3脚目のソファーを買うつもりなど毛頭ない。気に入った家具を扱う店にというものは、その他のインテリアは雑貨にしても好みと合致するものが置かれていたりするし、部屋の作り方などもなにかと参考になることも多い。そんなことを期待して立ち寄ってみたのだが、「僕の好きなソファーが扱われている」というだけで、その他には何も興味を惹くものはなかった。ソファーについても既に満足しているのだから、本当に無収穫だった。

唯一、なんらか収穫めいたことを挙げるならば、話しかけきてとにかく何かの説明をしようとするうるさい店主から「10年くらい使っていると座面がヘタってきませんか?」ということだった。使用頻度とか使い方にもよるが、10年くらいでダメになるものもあるらしい。

僕のうちの2脚には今のところ、そうした兆候は見られない。もしかしたら「消費を促すためのセールストーク」に過ぎないものなのかも知れない。まあ、そんなことはどうでもいいが、気に入ったものは長く使えるようにメンテナンスや日々のケアを怠らず「モノを大切にする生活」を心がけたいと強く思った。

焼肉に接する

今夜は焼肉を作って食べた。僕が「焼肉」と称されるものに接することはそんなに多くもない。

「肉を焼いたり炒めたもの」にならば、週のうちでも何度か接している。僕は特に肉を避けることもないし、安価な食卓を目指すうえでは「魚よりも肉のほうが安い」ということは当面、覆そうにもない。そんなことから肉への接触頻度も高くなるのだ。

豚コマと何かの野菜を炒めたものなどは日々の食卓やら弁当のオカズに多用しているし、「肉野菜炒め」みたいなものでなくとも、無性に肉を食べたくなってフライパンで「焼肉用の牛肉」などを焼いて食べることもある。

そんな訳で「肉を焼いたもの」は頻繁に食べているのであるが、「世にいう焼肉っぽいもの」を食べることは滅多にない。これは「焼肉≒朝鮮人のメシ」という感覚から美味そうに思えないことによるものであろう。

そんな好みについての背景がありながらも、今夜は数日前から「朝鮮風の焼肉らしいもの」を食べたいと思っていたので、そのために演出的な食材も支度して「世の中でもそれらしいと言われそうな朝鮮風の焼肉」を作って食べた。

僕の生活においては本当に珍しい献立なのだけど、これは比較的最近に見た「NHKの番組」に影よるものだ。

「365日の献立日記」に影響されてのものだったのだが、そんなテレビ番組を真似するなんてダサいことだと思う人も多いだろうと思う。そして僕もそう思うが、このところNHKの番組に影響を受けまくっている…。

まあ、そんな「影響力溢れる素晴らしい番組の批判」は置いておく。件の番組では「七色酢のもの」なるものが紹介されていたのだけど、そんなものは特に僕の食欲をかき立てもしなかった。

そもそも朝鮮人の食文化を取り入れたいとも思わないのだから、焼肉自体にも大した興味はないのだけど、この番組に出てきた食器が僕が持っているものと同じものだったので、やたらに焼肉に対しての興味が湧いていた。

朝鮮人がやるように鋏で肉を切ってみて、葉っぱで肉を重厚に巻いて口に運ぶと、それはそれなりに美味かった。そりゃそうだ、シンプルに肉と野菜を食べているのだから…。でも、基本的には「まあ、こんな味だよね」という程度のものだった。

人には好みがある。僕の好みには「朝鮮人のメシ」はそんなに合致しないようだ。

紫蘇の収穫

沼津のウチでもベランダ菜園を楽しんでいるのだが、以前程の楽しさがない。と言ったところで、僕がプランターの作物に対して手を抜いているかと言うとそんなこともなく、よく考えると「もともとそんなに手の込んだ世話」などしていないのだった。

一重に日照条件の差だと思っているのだけど、沼津のベランダの陽当りはそんなに良くもなく、そのために作物の成長が遅い。以前のウチだと5月の中旬ともなると紫蘇が狂ったように茂り、バジルやパセリもぐんぐんと伸びていた。

これらを無駄にすることなく摘み取り、香草という扱いではなく「菜っ葉を食べるかのように」ワシワシと食べていたが、現在のベランダ菜園ではそんなふうにいかない。

そんな愚痴のようなことを言っていたけど、幾分か紫蘇も葉を茂らせてきたのでそいつを収穫した。沼津は風の強い町で僕のベランダもそれなりに風が吹き荒れている。この風によってその身を揺り動かされていることへの防衛本能なのか、我が家の紫蘇はそんなに背を高く伸ばさない。以前と比べると「発育不良の元気のないやつ」なのだが、10枚ちょっとの葉を摘み取った。

紫蘇の葉はトマトと混ぜてサラダにして食べる。向田邦子の随筆の中で紹介されていたトマトと紫蘇のサラダは僕の好物で、もう何年もトマトと言えばコレ!というくらいの献立だ。

もとよりトマト自体が好きなのだから、この料理の摂取頻度も高い。そんな食卓事情において「紫蘇が茂りまくること」は本当に好都合だったのだが、今年からはそんなに期待できそうにない。

「いい季節」の思い出

今日は朝から御殿場〜小山にかけて出掛けていた。

僕の住む沼津も全国平均では便利な町の部類に入るのかも知れないが、やはり御殿場あたり足を伸ばすと沼津よりも牧歌的な光景も増えてきて、仕事の用事での訪問ではあったが楽しい時間だった。

農村の水田や5月も後半だというのにまだ咲いているタンポポの花を目にすると落ち着くし、なんだか温かな気持ちになるのは「日本人共通の感覚」なのだろうか?

田舎で生まれ育った僕にとっては、こうした光景は子供の頃は日常の風景だったし、学校の行き帰りにも毎日のように見ていた景色だった。こんな風景を見て育ったという原体験が呼び起こす郷愁のようなものなのか、それともテレビや本などで培われた「後付の懐かしさを感じるように仕向けられた知識」によるものかは分からないけど、視覚から作用してくるヒーリング体験…みたいなものを感じる時間だった。

5月の御殿場の田圃の風景をビデオ撮影しておく…という仕事のために訪れた御殿場であったが、なんとも心安らぐ水田風景のそばに沢山のタラの木が植えられているのを見付けた。

畑と水田の直ぐ側にパッと見ても10本を超えるタラの木が生えているのだから、これは自生したものではなく近隣の農家が植えているものだろう。大きくなったタラの木からはイガイガの痛そうなタラの芽も元気に伸びていた。

そのうちの幾つかはまだ天婦羅に出来そうなものもあり、それをすぐに摘み取りたい衝動に駆られたが、きっと「言い訳の仕様もない窃盗犯」になるだろうからグッと堪えた。

…そう言えば、今年はタラの芽もコシアブラもまだ食べていない。5月の気持ちのいい風にあたりながら食べるもののことをすぐに考えてしまう。こんなことだから「痩せねばならん」という状況に追い込まれるのだ…。

その後、取引先のイベントに顔を出してから小山町の道の駅に立ち寄った。

ここで目にしたのが青々とした独活。写真のものよりも更に立派で葉っぱを茂らせたものを買って帰る。

小学生の頃におじいちゃんと一緒に山のそばの道を歩いている時におじいちゃんが「おっ!ちょっと待っとれ。」と言うや否や茂みに踏み込んで緑の葉の付いた茎を折って戻ってきて「独活があったよ」と嬉しそうにしていたことを思い出した。

おじいちゃんに教えられ、野山に自生しているタラの芽やら独活をその後も何度か採る機会もあった。こうした幼い頃の体験を思い出させてくれるのも「御殿場〜小山の農村原風景」の効果なのかも知れない。

僕とおじいちゃんは62歳離れていたはずだから、存命ならば112歳のはずだ、この年齢は現実的ではない。しかし、タラの芽や独活に心をときめかす「すっかりおっさんになった孫である今の僕」をおじいちゃんが見たらなんて言うだろう?きっと僕と同じように山菜に歓喜し、そいつらを肴に一緒に美味しい酒を飲むのだろう。

同じようなものばかり食べる日々

「今日もこれ?」って、子供ならば、いや大人であっても連日同じような献立が続くならばそうなことを言うのだろう。

ではあるが、僕は今夜も昨夜も、そして数日前からもだいたい同じようなものを夕餉の菜にいただいている。

今夜の献立は「トマトのサラダ、空豆の塩茹で、ブリの漬け」とこんなところであり、僕なりには御馳走を肴に酒を飲む夜だ。

数日前のこのブログに記したが、トマトはとても美味そうなものが安価に売られていて、そいつを目にした途端に買わずにはいられずになり8球もを400円で買ってきたもの。そして、空豆は「難アリ」との自己申告のあったものをセコさ丸出しで2パックも買ってしまったものだから、そいつを今夜も食べる有様だ。

写真手前のものは鰤の漬け。これも美味そうな切身の柵が売られているのを見つけて、どうにもそいつを買いたくなって買ってきたもの。昨夜、柵の三分の一を刺身にしたのだが、結局、刺身では食べなかったのでそれを紫蘇と擦った胡麻と和えて漬けにしていたものを今夜食べている。

今週は火曜日に仕事上の会食があったので、その夜は外で夕食を摂ることになったのだが、それ以外の日の食卓にはだいたい毎日トマトを食べているし、空豆も続いている。そして一冊買ってきた鰤もまだ沢山残しているのだから、僕の食卓に変化が訪れるのはしばらく先のことになりそうだ。

これが嫌なことか?と言うと、僕にとってはそんなに嫌なことでもなく、日々、旬の味覚を楽しめて良かったなあ…という負け惜しみめいた気持ちも少しはありつつも、こうした食卓を楽しんでいる。

旬の食材というものは、やはり美味さ(旨さ)も充分で、あわせてその食材の成長やら流通の背景に思いを馳せることが出来るものだ。そして、僕にとっては一番大切にしていることなのかも知れないが「比較的安価」である。大口を開けて食べることの出来る食材というものはやはり嬉しい存在だ。

今年の旬には文字通り「嫌となるくらいまで堪能する」のだ。旬にはやらその名残りを過ぎてその食材に簡単に接することが出来なくなると、別れたばかりのその食材の来年の旬が待ち遠しくなるし、その頃にはまた別の食材との出会いが待っている。

そんなことを考えながら、今夜も数日連続となるトマトと空豆を食べている。

続 身体のことを考える

ゴールデンウィークに長男長女の住む下宿に数日遊びに出掛けていた。それまでの数年、いや数十年に及ぶ不摂生がたたってなのであろう、僕は少し体を動かすことも辛いくらいの背中の痛みに悩まされた。

家族と楽しい時を過ごしたいにも関わらず、自由に動くことの出来ないもどかしさ。背中の痛みから明朗快活に会話をすることも出来ず、本当に勿体ない時間を過ごした。

ゴールデンウィークの終盤には末娘によるマッサージの効果もあったのか、痛みはそれなりに治まったのだけど、50歳になると自分が過信しているほどには体は動かなくなるようなものであり、長い年月の不摂生のツケが一気にその返済を求めて押しかけていることを実感した。

酒に煙草に運動不足、そして満腹まで食べてから眠るという生活習慣…。身体に良くないことのほとんど全てを網羅してきているのだから、「そのツケの額」が膨大になるのも当たり前のことだった。

…と、他人事のように言ってみたが、こうしたものの元凶がやはり「太っていること」なのだ。長年、心の底ではとっくに気が付いていたが、敢えて無視し続けていたことだが、やはり「太った現状」をどうにかせねばならん…。そんなことを深く反省させられるゴールデンウィークだった。

…そんな訳で、ゴールデンウィークが明けてからはそれなりに気を付ける生活を送っている。ちゃんと自分を律することが出来て、節制なんてことを無意識のうちに考えられる人にとっては本当にくだらないレベルのものなのだけど…。

豆の美味い時期に、そんなに美味くもない豆を食べる

晩春の味を楽しむ数日が続いていた。

5月は僕の中では夏と捉えるようにしていて(これは初夏なのだけど…)、夏を迎えたのに春の味覚を楽しむのもチグハグなことだな…なんて思いながらも、やはり実体験によって培われたその季節の味というものはなかなか意識を変えることが出来ない。

そんな訳で5月に入ってから春の味覚を楽しむばかりなのだけど、豆の美味しい季節を迎えた。

「豆」なんて言ってもその範囲は膨大で、小豆やら大豆、そして豆の形を残している加工品である納豆なんかも含めると「一体どの季節が豆の旬のなのか?」分からなくもなるのだけど、僕の好きな豆は緑色したやつのことだ。グリーンピースに始まり空豆、枝豆、なんならスナップエンドウやら絹さやのことを指す。

後者の2つの旬はよく分かっていないのだけど、やはり空豆やら枝豆は初夏〜盛夏にかけて比較的長い期間、毎年賞味している。

今夜は早い時間に仕事を終えて帰宅してから、早速空豆を茹がいて冷たいウイスキーとともに楽しんでいるのだけど、今日の空豆はそんなに美味いものでもなかった。

基本的に空豆を食べるときには「僕は一般的に茹で過ぎ」と言われるくらい茹でたものを食べる。しっかりと茹でて、皮の青臭さとともに柔らかくなった実を皮と一緒に食べるのが好きだからだ。

そんな訳で僕が自宅で食べる空豆というものは「鮮やかな緑色」などしているわけもなく、多少白っぽく見た目では完全に茹で過ぎのもなのだからして、写真を見た方も「これは美味そうだ」とは思わないだろう。

しかし、そんな見た目とはそんなにも関係なく、それなりに美味い空豆を今シーズンも既に何度も楽しんでいるのだけど、今夜のやつはそんなにも美味くなかった。

今夜食べているものは「訳あり空豆」として、安価に売られていたもの。「皮が黒くなったので安くしています。味はいいよ!」みたいな文句が添えられて売られていたものだけど、空豆に限らず安い食材に目のない僕は迷うことなくこいつを買ってきた。

空豆の美味しさはとにかく鮮度抜群なことで、この豆は摘み取られてからの劣化が早い」というようなことは、過去に何度も何かで読んだこともあったのだけど、売られている空豆の価格はその鮮度を反映してなのか非常に値段差が大きい。

高い空豆を買うと本当に高く、大口を開けて食べるのも忍ばれるほどなので、僕が空豆を食べるのは大抵それなりに安い空豆を見つけた時だ。

今夜の空豆はやはり価格に比例してその美味さにも難のあるものだった。しかし、完全に負け惜しみではあるが、こうした不味い豆に出会うのも旬ならでは…と思いながら、豆を肴にウイスキーを飲み進めている。