datetaira’s blog

日々の生活で思うこと

外食でカレーライスを食べる。

都会生活のいいところは人工的だったり、商業的だったりするものだけど文化的な刺激がとても多いという点だ。

演奏会だったり展覧会だったり、それは仕掛人が金を儲けるためのものではあるのだけど、金を払えば文化的な生活を送っているような気持ちになれる。

先日、仕事での訪問先で展覧会の招待券を沢山もらった。いずれもこの夏開催しているものなので、期限が近いものであっても8月末頃までは見ることが出来る。焦る必要はないのだが、ボサッとしているとあっという間に時間は過ぎていくのだから、昨日は神田で開かれている展覧会を見に行こうとした。

神田という場所は我が家からも割と近いので息子と2人で自転車で出発したのだが、ウチを出たらすぐにパラパラと雨が振ってきた。そこで我々はウチに引き返して自転車を置き、どうせ電車で出掛けるのなら…と、神田の展覧会は諦めて恵比寿に映画を観に行くことにした次第。こうした経緯があり、僕は「カウント・ベイシー」を恵比寿ガーデンシネマで観てきたのだった。

さて、映画館に着く前に僕たちは昼御飯を食べた。僕が外で昼御飯を食べることはそんなに多くないし(…と言っても前日には日暮里で蕎麦を食べていたが…)、食べる時にはカレーライスかラーメンを食べることが多い(…と言っても前日には日暮里で蕎麦を食べていたが…)。

カレーとラーメンはウチではなかなか真似が出来ないほど美味しいものが多い。定食屋っぽいものについては自宅で作ったものの方が美味しいと思う。豚の生姜焼きにしても鶏の唐揚げにしても外食で食べるものは化学調味料の味が強いものが多く「そうした外食ナイズされた味」もしっかりと市民権を得ているので、そうしたものこそ外食で食べるものだと考える人も多いようだ。とにかく自炊が嫌いな人とか…。

昨日はカレー屋で昼食を摂った。

程々の辛さのものを食べようと思っていたのだが、極端に辛いやつを好まない息子が極端に辛いやつを頼む…というので僕もそれに負けじと辛いやつをオーダーする羽目になってしまった。チキンレースをしている訳ではないのだが、ここで僕が程良くヌルいやつを頼んでしまうと父親の沽券に係るような気がしたからだ。

辛さのなかにも旨味がある…なんて言っていられるのも序盤の方だけで、途中からは口中の痛みとの戦いのようなものだったし、土砂降りの雨の中を歩いていたのかというくらいに頭皮から汗が流れた。

これはウチで作るのも躊躇してしまうくらいの辛さのものだし、外食でなくてはきっと食べることのなかったものなので「我々親子が重要視する外食に求める要件」を満たしたものだった。

ヒリヒリとする口をサービスで付いてきた甘いチャイで誤魔化しながらの映画鑑賞。まあ、これはこれで楽しい経験だった。負け惜しみではないが、充分に堪能したので当分はカシミールカレーは要らない。

日暮里の蕎麦屋

東京に来てから立ち食いそばを食べる頻度が増えた。それは他の町と比べると店も多いからであるし、美味しい店も多いからだ。

昨日は息子と一緒に日暮里の店に出掛けた。

湿度が高く気温も低くはないので不快な気候なのだが、雨は降らないのでチャリンコで向かう。…というか、チャリンコで出掛けていたら息子が昼御飯を食べようと提案してきたので日暮里の店に向かったのだった。

ちょうど昼時だったので店の前には10名弱の列が出来ていた。立ち食いそば屋なので、ほとんどの客はサッと啜ってサッと帰るので客の回転も早い。

たまに日本の食指マナーを理解していない外人とかお喋り婦人会の会場と勘違いしたBBA集団がいたりすることもあるが、あれは本当に勘弁して欲しい。あの手の客からはテーブルチャージとして5倍くらいの値段を取ればいいのに…と本気で思う。

さて、昨日の店にはそんな風なおかしな客もいなくてすぐに順番は回ってきた。蕎麦も太いものと普通のものがあるし、天麩羅の種類も豊富だ。そんな中から一番の名物メニューと思しき「ジャンボ下足天の太蕎麦(熱・小)」を注文した。

色の濃い汁はキリッとしていて悪くないのだが、太蕎麦は麺を太くしている分、つなぎの力を高めるために小麦粉の含有量が多いような気がして僕は好きではなかった。

まだ下足天麩羅もその名の通りにジャンボなのだが、衣の中の下足は限界まで縮めさせたくらいに硬く縮んでいた。温かな御汁に浸しているのでなんとか食べられたが、冷たい汁だったら顎関節症になっていたかも知れない。

そもそも下足というものには強い歯応えはあるが、食材本来の持ち味としての歯応えはとっくに超えた「失敗して揚げ過ぎて硬くなりまくったもの」を食べさせられているようだった。あれが失敗ではなく、いつもあのレベルのものが出されているとしたら相当にヤバい店だと僕は思う。

そんな訳で「俺はもう行かないね。あの下足はお金取れるものではないだろ!」と息子と娘に話していたら、「490円のメシに文句を言ってはダメでしょう?」と言われた。

今時、490円で外で食べられるところなんて本当にないんだから…という理由のようだが「いや、あれが490円もすることがダメなのだ!俺は100円でも金を払うのは嫌だね。いや、100円ならいいか…。しかし、何よりもマズいものでイタズラに食欲を満たされた俺の胃袋が可哀想なのだ!」と説明した。

確かに490円で天麩羅蕎麦が食べられるのは安いが、安ければいいというものではない。僕は普通に自分で食べたいものは自分を喜ばせるだけのクオリティで支度することが出来るのだから、外食に対してもちゃんした評価をするのである。

カウント・ベイシー

今日は映画を観てきた。

カウントベイシーというピアニストというかバンドリーダーは世間一般では別にメジャーな人ではない。スウィングのビッグバンドと言えばデュークエリントンとかグレーンミラーあたりの名前が出てくるのだろうけど、ベイシーはなかなか出てこない。

ジャズの中ではメジャーな人なのだけど、そもそもジャズという音楽ジャンル自体が商業的ものと比べればずっと少数派なのだから仕方ない。

僕は若い頃、そんなカウントベイシーに心酔した時期があり、ちゃんと数えてはいないが僕のCD蔵書の中では一番多くのCDを持っているように思う。次いでマイルスなのかと思うが、マイルスは1枚の重みが凄いからなんでもかんでも買ってしまおうというよりも、気に入ったアルバムをじっくりと聴きたくなる。これに対してベイシー楽団の演奏は、同じ曲を演っていてもライブ盤ごとに聴きどころが違っていたりするからとにかくあらゆるテイクを聴きたくなるのだ。

僕がベイシーに心酔していた20台の頃はYouTubeで無料ライブ映像とかアルバム音源を視たり聴いたりすることなどなかったから、欲しい音源や映像は買うしかなかった。今ではベイシーのCDを買うことなどないが25年くらい前に買ったCDが沢山あるのだった。

さて、今日観てきた「カウントベイシー」という映画だが、控えめに言ってもクソのような映画だった。

別に劇場で見る利点など何もない。映像の迫力や音響環境の良さを必要としない。要は映画ではないのだ。NHKあたりでやっている海外ドキュメンタリーと変わらないので、テレビで見れば充分なものだ。本当に!

加えて、ベイシーの音楽性とはほぼ関係のない彼の私生活を出歯亀のようにわざわざ紹介しているだけの内容で、それが特にスキャンダラスだったり話題性があるものでもないので「はぁ…。そうですか…。」とどうでもいい情報をわざわざ映画にして伝えられるというものだった。そしてチケット代は2,200円、相当な無駄遣いだった…。

「糞のような映画」にはたまに遭遇する。そもそも僕が劇場で映画を観るのも年に3回くらいだろうから、それでクソ映画を観てしまうというのは結構な頻度だと思う。別に商業的に流行るものに飛びつく性質でなく、むしろ単館系の作品に惹かれたりするからこういうことも起こる…。

そうしたハズレ品にあたった時はそのダメっぷりを話題にして元を取ってやろうと試みるのだが「今回のカウントベイシー」は特にネタにするところもないくらいに面白くないものだった。

ベイシーの割と真っ当に過ごしてきた私生活に誰が興味を持つというのだ?音楽的な話は本当に浅いところだけで、あとは人のいいおじさんの生活をわざわざ過去の映像を探してきて紹介するだけ。僕は結構なベイシーファンだと自認しているが、それでも観ていて悲しくなるようなダメさ加減だった。

田舎のスーパーと都会のスーパー

土日とか祝日…これは休日のことを意味するのだけど、休みになると買出しに出掛ける。

「買出し」というと大きなリュックでも持って沢山のものを買うために遠くに出掛けるようなイメージがあるが、僕が出掛けるのは近所だ。都心に住んでいて通勤経路には何軒かスーパーがあるがそれらのどこにも大したものが置かれていない。

都会に住んでいればものを買うことについては全く困らないようなイメージがあるかも知れないが、食料品を買うことにおいては東京は実に貧しいところだと思う。高価なものや「意識高そうに見える低意識のもの」は凄く沢山あるけど、安価で新鮮で美味しいものはなかなかない。

モノホンの田舎だったり地方都市のほうが「ちゃんとした美味しい食材」は入手しやすい。「ものを買うこと」というのは色々な店が立ち並ぶ都会ならではの魅力だったのも昭和や平成中期までのことだ。

一部のトンガったものとかマニアックなのものとか洗練されたものに接触するには都会の方が便利ではある。しかし、庶民的なものの多くはネットで買うことが出来るし、僕も買物するもの多くがAmazonとメルカリである。綺麗な街にあるお洒落な店での買物など、本当にしなくなった。

…となると、ものを買うことにおいては新鮮で安価な食品が手に入れやすい分、実際は田舎の方が恵まれているはずだ。去年5年ぶりに東京に戻ってきてからは、そんなことを強く感じる。

 

さて、昨夜は魚のフライを作って食べた。ウチから最寄りのスーパーにあったの中で「フライにするのに一番の好適品」がパンガシウスだった。

知らない人もいるだろうけど、パンガシウスは東南アジアの養殖魚で安い。ものの美味さなんて値段に完全比例する訳でもなく、この魚は安い割には美味い…というか「The出来合いの魚フライ」みたいな味になる。まあ、安っぽい味と言えばそのまんまなのだけど、僕は好きだ。

しかし、その他にはフライにするのに良さそうな魚は見当たらなかった。塩サバとかタラコとか塩鮭とか…。

この店にはワインは何種類も置かれているし、瓶詰めのドレッシングも驚くほど沢山の種類が置かれている。なんだか綺麗に見えるようなものはバッチリと揃っているのに料理をしようと思う食材はほとんど扱われていない。

便利に見えて全く便利ではない都会スーパーの典型のように思えた。そして、そんな都会スーパーの典型商品の一つがパンガシウスのような養殖魚なのだろう。「田舎のネズミと都会のネズミ」を思い出した。

タルタルソースを作る

3週間くらい前にかかってしまった風邪は今も完治せず、気管支炎のような感じで咳が続いている。先週くらいまでは痰も出ていたから、単に気管支の調子が悪いとかではなく何らかのウィルスにやられたものだろうと思っている。

病院には2度ほど行って都度薬を処方してもらっているのだけどそんなに良くならない。それは僕が酒を飲んで莨をやるという「体調を全く無視した行為」を続けているからなのだけど…。

さて、僕に端を発した風邪は同居している息子にもあっという間にうつり、そして近所に住む娘にもうつった。娘も風邪の症状に苦しみ、休日の昨日と今日は自宅で寝て過ごしていたそうだ。

 

今日は日曜日で、この先一週間をそれなりに豊かに過ごすには食料品を買っておく必要があった。僕のウチのすぐ近くにはその品揃えに満足出来るようなスーパーがないから普段から一駅離れた所にあるスーパーやら八百屋を利用することが多い。

そんなスーパーの近くに娘は住んでいる。買物事情だけを言えば随分と羨ましい環境である。

今日は買出しの前に大急ぎでタルタルソースを作った。買出しついでに娘の下宿に寄って差し入れするためだ。

玉子を茹でて、胡瓜の古漬けと辣韮を細かく刻んでプランターから摘んできたパセリを具材にする。僕のウチの食卓にタルタルソースが登場する機会はそんなに多くもないのだけど、娘はタルタルソースを喜ぶ。

小さな頃はマヨネーズを食べられなかった娘が近年、知らないうちに沢山のマヨネーズを用いたタルタルソースを好きになっていたことに驚いた。

僕自身も気持ちのうえではタルタルソースをそんなに好きではないように思っているのだが、思い返してみればそれなりの頻度で作っているし、食べるといつも美味しいと思うのだから実際には好きなのだ。

しかし、タルタルソースを作るのに多量のマヨネーズを使うことに驚くし、食べてみれば夥しい量のマヨネーズを簡単に食べられてしまうことに更に驚く。具材を足してさっぱりとさせるからそんな量を食べることが出来るのだろう。マヨネーズだけでは味が濃くてそんな量を食べることは出来ない。そう思うと高カロリーで塩分も豊富だろうから全く身体には良くない食物なのだが、美味しいので作ってしまう。

 

さて、病に伏せる…というと大袈裟なのだけど、風邪をうつしてしまった娘へのお詫びのような気持で何かの差し入れをしてやりたくなった。ウチの冷蔵庫在庫食材ですぐに作れそうなものがタルタルソースだったので、そいつを作ったのだった。何か別の食材があれば別のものを作っただろうし、食材のストックがあれば、そもそも買物に出掛けないし娘のところに行くこともなかっただろう。

刻んだ具材をレモン汁で伸ばしたマヨネーズと和えて、辛子や塩と胡椒、香り付けのディルやパセリを加えて味を調える。料理とは呼べないような小学生の調理実習感に満ちたものだ。

娘への差し入れのために作り始めたものだったが、一人分作るのも複数人分を作るのもその手間は大きく変わらないのだから、娘の分の他に我が家の分も一緒に作った。

すぐに食べる予定もないし、僕のウチの食卓にはタルタルソースがあればいいような献立もそんなに登場しないのだけど…。

今日のタルタルソースは娘のために作られただけで、我が家の食卓には登場しなかった。

…………とここまで書いていたら眠ってしまったようだ。今はもう月曜日の朝である。今日の夕食はこのタルタルソースを使った献立にしようと思う。

サクランボで感じた物価高騰

6月もいよいよ終盤を迎えたが、一カ月単位で見てみると今年の6月は無為不毛な月だったように思う。

5月下旬の出張のストレスにより生活サイクルが崩れてしまい、それが原因で風邪をひき、咳が止まらなくなった。大した病でなくとも身体の不調というものはてきめんに生活に影響するもので「どうもしゃんとしない生活」が結構長く続いている。

漬物を漬けたり部屋を掃除したりという生活らしさを守る最低限のことだけはこなしているのだが、とにかく怠惰な方に向いてしまっているのだ、僕の生活は。気合の入らん日々を反省しつつ、休日の今日は朝からゆっくりと熱い風呂に浸かり掃除をしたりストック食材の在庫確認をしたりしながら過ごしている。

そう言えば今年の6月は好物のアメリカンチェリーを2度買った。桜桃忌のことを思い出しながら食べたのだが、今年のアメリカンチェリーは今ひとつだった。

これはアメリカンチェリーの育成具合とか果実の出来云々というものではなく、単に僕が「鮮度が落ちてきて安くなったたものを買ってきたせい」なのだと思う。アメリカンチェリー特有のパチンと弾けるような強い歯応えも酸味もなく、食べ時を逃してしまったような「どうも腑抜けたような味」だった。

まだ値段が高いのだからもっと安くなってから…なんてセコい了見でいたのが良くなかった。僕が安く買ってきたものは旬を迎えて安くなったものではなく、商品価値がなくなる前に叩き売ってしまおうという劣化商品だったに違いない。そんな風に思うしかないほど残念な味だった。

食物に対してはついつい割高なものを買ってしまうことへの抵抗感が強い。未だに「東京と比較すれば物価に恵まれた静岡や沼津にいた時の感覚」が抜けない。でもそれは去年のことだったり数年前の金銭感覚なのだった。

無駄遣いは避けたいと望みながらも、ケチなことを優先するせいで結果的に割高なものを手に入れてしまうなんて馬鹿な話だ。お得なものばかりを買いたい…という気持の中での各種価格設定を更新しなければならん…。

多くのものの値段が高くなったことは日々感じるのだけど、そいつをアメリカンチェリーで痛いほどに感じるというのもなんだか貴族のような浮世離れした生活をしている人のように感じるが、僕の生活は実に貧乏臭い庶民のものなのだが…。

無垢材のテーブル

今週のお題「こだわりの道具」。これも今回のブログを書いてアップしようと思った時に気付いたもの。僕の生活においてはほぼ全ての道具にこだわりを持っているから何について書いてもこのお題が当てはまるようにも思う…。

 

僕の使用しているテーブルは6年前に新調したものだ。切り倒された大きな栗の木を10年以上軒下で油抜きやら乾燥させられていたものを製材してもらいテーブルに使っている。

10年以上寝かされていた…って軒下に放置されていただけなのだが、田舎のウチにはそんなものも多くある。土地や敷地が広いからそこらに放っておいても特に邪魔にならないし捨てるのも面倒だから「何ということもなくそこにある」なんてものが存在するのだ。

そんなテーブルがここ1年くらいベタベタしていた。2年くらい前に沼津にいた時に木材のケアのために塗布した油が劣化していて、そいつがベタついているのだった。

テーブルのうえに折り込みチラシを置いておくとペタッとくっつくくらい!これは重症で不快なので先週の休みに息子と2人で油落としに精を出した。

ベタつく油は層になって乾燥しているが、カリカリやサラサラにならずにゴムのような粘性を持った層になっていた。その層は1ミリもないのかも知れないが、テーブルの表面をベタベタさせるには充分な厚さだったし、取り除くのにも随分な労力を要すものだった。

潜在をかけて金束子でゴシゴシと削り取り、風呂場に持って行って水で流しながら更にゴシゴシとやる。テーブの表面は削れてきて油の層も落ちてくるが不細工な傷が沢山ついてしまったので借りてきたサンダーで研磨する。研磨しながらも落ちきっていない油の層が消しゴムカスのように出てくるので再び金束子を用いる…という作業。

これは結構疲れるものだったし、日曜日の昼前から夕方までの時間を費やしたが、これによりテーブルのベタつきは解消され、木材が本来持っている手触りも戻ってきた。厚化粧をクレンジングで落とし、落ちきらない化粧品をナイロン束子でゴシゴシやって落として、ようやくすっぴんになったような塩梅。

そして翌日には荏胡麻油を塗布した。そのままだと簡単に染みが出来てしまうし、板面の保護も必要だからね。

2年前に僕が塗った油も天然素材のものだったが劣化していたに違いない。6年前にテーブを新調した時に塗ったものが残っていたのでそいつを捨てるのも勿体ないと思い使ったものだからだ。そんなケチなことをするからかえって無駄な出費が増える…。

モノをしっかりとケアしようと思うのならば、ちゃんとしたものを用いるべきだし、ベタベタと余計なものを塗りたくる必要もない。良質な基礎化粧品を使うようなものだ…なんて考えていたら、これは「靴のケア」と全く同じであることに気がついた。

そう言えば、靴にもしばらくの間、油を加えていないな…。梅雨が明けたら靴やら革ジャンもケアをしよう。サラリと快適になったテーブルでそんなことを思った。