東京に越してきて、もうすぐ半年になる。
息子との夕食は週に二、三回。残りの日は一人で台所に立つ。プランター菜園はまだ土を入れていないし、ゴルフクラブはクローゼットの奥、トランペットはケースの中で埃をかぶっている。それでも「とにかく継続性を重んじて生活していこう」と自分に言い聞かせながら、毎朝味噌汁を温めている。

先週、ふと思い立って小さな旅に出た。目的地は沼津。昔住んでいた街で、仕事の外回りで何度も通った場所だ。東京駅から東海道線に乗るまで、靴のことを考えていた。最近はスニーカーが楽すぎて革靴を履かなくなった。旅先で歩く距離が増えることを思うと、少しだけ後ろめたい。駅のホームで買ったおにぎりをかじりながら、窓の外に流れる桜並木を眺めた。春の寒暖差がまだ残っていて、コートを脱いだり着たりを繰り返す。
沼津に着いたのは午後三時過ぎ。駅前のロータリーは昔のままだったけれど、記憶の中の「鷹乃家」はもう閉店していた。ブログにも書いたように、最後に食べたチャーシュー麺の温度が低すぎて、期待の半分も満たせなかったあの店だ。さみしさは一瞬胸をよぎったが、「西葛西に行けば似た味は楽しめるはず」という期待がすぐにカバーをかけてくれた。結局、旅の初日の夕食は駅近くのスーパーで買った材料で自炊にした。
宿は海沿いの小さな民宿。部屋に入ると、窓から駿河湾が見えた。夕方六時、ガスコンロを借りて湯豆腐を作る。スーパーで見つけた法蓮草をさっと湯がき、おひたしに。豆腐は熱々のまま、かつお節と醤油をちょこっと。息子がいない一人旅だから、味見をしながら「これでいいのかな」と独り言を言う。ブログで書いた常夜鍋の延長だ。冬の終わりから春にかけて、ずっと食べ続けたあの味。旅先でも同じ鍋、同じ味付け。継続性って、こういうことかもしれない。
夜は雨が降り出した。民宿の軒先で傘を借りて、近くのコンビニまで買い物に行く。雪中行軍のような歩き方になった。東京では雪が珍しいのに、ここではまだ山の残雪が見える。傘を差しながら思う——旅って、日常の延長線上にあるんだな、と。家にいるときと同じように、ポカリスエットを買って、ゼリーを一つ。腸炎で入院したときの記憶がよみがえる。あのときも「水分をちゃんと取らなきゃ」と自分を叱咤しながら回復した。旅先で体調を崩すのは怖い。だから習慣は変えない。

翌朝、目が覚めると雨は上がっていた。宿の主人に勧められて、近くの海岸を散歩した。波の音が静かで、靴底に砂が少し入る。スニーカーの快適さを改めて感じる。昔は革靴で歩き回っていたのに、今はこれで十分だ。変化は悪いことじゃない。ただ、棚上げしていたものを再開するタイミングを、旅が教えてくれるのかもしれない。
昼過ぎ、沼津の古いラーメン屋に寄った。鷹乃家に似た味を求めて。カウンターでチャーシュー麺を注文しながら、隣のサラリーマンと少し話した。「東京からですか? いいね、気軽に帰ってこれて」。気軽、という言葉が胸に刺さった。越してきて半年、沼津はもう「帰る」場所ではなく「訪れる」場所になった。さみしさはあった。でも、そのさみしさを「また来よう」という期待がすぐに包んでくれた。本質的にはもっとさみしいラストシーンかもしれないけれど。
夕方、電車に乗る前にスーパーに寄って法蓮草と豆腐をもう一度買った。東京の自宅で再現するためだ。旅の荷物に野菜を詰めるのは少しばかばかしい。でも、これが僕の継続性だ。プランター菜園も、ゴルフも、トランペットも、いつか芽を出すかもしれない。自然に芽が出ないなら、水をやって、手入れをして、枯れないようにするしかない。
帰りの新幹線の中で、味噌汁のことを考えていた。旅先で作った湯豆腐の味は、家で作るそれと少し違っていた。海風のせいか、気温のせいか、それとも「旅」という非日常のスパイスのせいか。どちらにしても、美味しかった。さみしさも、変化も、全部ひっくるめて。
旅は特別な何かではない。日常を少しずらしただけだ。靴の履き心地が変わり、食事の場所が変わり、景色が変わる。でも、味噌汁の味付けは変えない。法蓮草のおひたしは変えない。息子に「パパ、今日も湯豆腐?」と聞かれたとき、ちゃんと答えられるように。
東京に戻るホームで、プラットフォームの時計を見上げた。春の夜風が少し冷たい。コートを羽織り直しながら、思う。
「とにかく継続性を重んじて、生きていこう」。
この旅で、また一つ、種を植えた気がする。芽が出るかどうかは、まだわからない。でも、水やりは忘れない。