今朝は粥を炊いて食べた。ついさっきのことだ。
消化に良い粥を食べるということは、普段から過食が続いている僕にとってはもっと生活に取り入れる…なんて言うより、生活そのものにすべき食事なのだろう、永平寺のお坊さんたちのように。
まあ、僕の生臭さは取り払えるレベルでもないので「時折、粥を食べては悦に入る」という向き合い方しか出来そうにない。そもそも、生臭さを取り払うつもりもないのだけどね…。
麦と米を同量混ぜたものを水で炊く。簡素な粥を白菜漬けと冷蔵庫で持て余していた瓶詰めと一緒に食べた。
『今週のお題「手土産」』にカスるような話なのだが、手土産に瓶詰めを貰うことがある。これが今朝の粥のオカズとなった。
僕が女性から物を貰うことは稀なことだが、瓶詰めは女性からしか貰った体験がない。しかし、この数年、複数の女性たちから瓶詰めを貰った。それも少し大きめのショッピングモールにはよくある「久世福商店」のやつ。
彼女たちは「メシを御馳走したお礼」などでその品を贈呈してくれ、それは彼女たちなりに僕が喜ぶものだろうとキチンと考えてくれての品だった(はずだ)。しかし、これが僕にとっては全く嬉しくないものなのだった。
「大人の牛しぐれ」はともかく、「味噌かつ風」「鶏の炭火焼風」…「風」ってなんなんだよ。
まあ、原材料を見てみると、そこにはカツも鶏も入っておらず、各種の化学調味料でそれらしい味にしてみたものだから「風」というのが正しいのだろう。実に正々堂々とした嘘もん食品ぶりである。
ならば!…と「大人の牛しぐれ」の原材料も見てみると確かに牛肉は含まれていたが、その味はやはり調味料が前面に出たもので特に美味いとも思えなかった。こうした「我が国の経済活動を支えるための化学調味料を礼賛するような味」こそが大人の味なのだろう。実に深い。
これらの瓶詰めは貰ってから随分と経つ。普段からテキトーなものを食べることも多いが、それでも「コレ」で飯を食べるのものなんだか飯に失礼な気がしていた…。しかし、これをくれた女性たちに対しても申し訳なくも感じる…。僕は飯と女性の板挟み状態で、半ばいやいや食べ始めた瓶詰めはなかなか減らずにいた。
手土産を頂くことは本当に嬉しい。これをくれた彼女たちの気遣いにはとても感謝している。しかし、モノと人には相性というものもある。
久世福商店の品物は「気が利いてちょっとセンスのいい女を演出出来る」と女性たちに思わせる優れた品なのだろう。食物に拘りがある…ということを配慮してくれるのなら「ストレートに美味くて高価な焼き海苔」とか「シングルモルトのウイスキー」とか、安価に済ませたいなら「あらじお」などを頂戴したい。僕と加工食品は相性のよくないモノが多いのだ。
…って言いながらも、瓶詰めは最後までちゃんと食べる。彼女らへの感謝もあるが、食べられるものを捨てるなんて本当に勿体ないかではないか!