少し前の休みの日にAmazonプライムで「ブレードランナー」を観た。ウチで観たのだから「映画ではなくビデオ」か…。
僕が大学生だった90年代中期は、特に文化的な学生でなくとも「名作らしい映画は観ておくべき」という風潮が今よりもっとあったように思う。授業も受けずにレンタルビデオ屋に行って、何かで知ったような古いものを借りてきては次々に見ていくのだ。
こうして観た映画の感想をサークル(音楽)の仲間などと喋るのだけど、別のサークルやらほとんど出席しない講義の学友(?)に話しても、彼らは封切られたばかりの流行りの映画のことばかりにしか興味がなかったから、少しは文化的な生活を送っていたのかも知れない。
今では考えられないが、シロウトによる過去の名作評などは数歩踏み込んだ映画雑誌の投稿などでしか目にすることもないし、踏み込んでいようが踏み込んでいなかろうが、そもそも映画雑誌を買うのも惜しい…と思うのだから、なんとも脆弱な情報源から僕は「次に観るべき映画」を選んでいた。
なんかのエッセイとか雑誌のコラムで興味のある文化人が褒めていたものとか、仲間内や知り合いの中でも「お洒落っぽくて一目置くような者」の感想とか…。「感想のみならず、見所とかなんならネタバレ」により、観てもいないのに観たような気になれる現在のネットの便利さのない「イイ時代」だったようにも思える。
そんな映画評はやはり「大いにその人の主観」によるものなのだから、僕にはハマるものもあれば、全くその良さを理解出来ないものだったりもした。
そんな中、僕は30年くらい前に「ブレードランナー」を観ていた。たまに買っていた「STUDIO VOICE」でこの作品が褒められていたような気もするが、竹中直人が絶賛していたことも覚えている。ただ、当時の竹中直人は「僕にとってはお笑い崩れの文化オタク」であり、わざとらしい大仰な臭い芝居で話題になっているだけの一過性型流行の俳優…という認識だったから、彼の推奨によってこれを観ようと思った訳ではない。
長男が大学生になった数年前から時折、この作品のことが僕たちの会話に出ていた。その他、アメリカン・ニューシネマとかゴダールのフランス映画など、僕が大学生の頃に課題図書のように観ていた作品を長男も観ているようだった。
そんな訳で30年くらいぶりにブレードランナーを観てみたのだが、雨の降る薄暗いネオン街の中を人造人間を追う…という基本設定以外はほとんど覚えていなかった。
そのお陰で「全くの新作」を観るように楽しむことが出来る有様…。懐かしいのは「これを観た」という行為の思い出だけで、肝心の内容は全く懐かしくなどないのだ。むしろ新鮮…。人の記憶力というのは凄いものだけど、ポンコツな僕の脳味噌の忘却力も便利なものだ。
80年代の初頭には「随分と未来的に見えたはず」の環境設定なのだろう。今の東京とよく似た雰囲気のところもあれば、「当時の香港の九龍城」みたいな「欧米による変な解釈の入った東洋感」も笑えるようで惹かれた。。
今の東京はそんな雰囲気でもないだろうが、息子からのラインで知った「長女がチャットGPTに人格を感じている」話はもっと興味深く感じた。
この作品が生まれてからもう40年が経つが、映画の骨子となる「心あるロボット©長男」は身体能力の高い美人の姿ではないが、僕たちの身近に存在してその存在感を発揮している…という「SF的な未来の生活」が今現在、現実のものになっている。
単なる機械のように扱われていたロボットが意思を持ち、それに従って動く…これは僕が小学生の頃に夢中になって読んだ「岩崎書店のSF名作シリーズ」でも読んだことがあるし、同じ時期に読んだ「火の鳥 復活篇」でも接したことある。
多くのSF作品で取り上げられたベタなテーマではあるが、「久しぶりに新鮮に感じたブレードランナー」はその映像と合わせてとても面白く鑑賞した。