さて、もう一週間前のことになるのだが、友人に誘われて加入している市民楽団で「とある町の音楽祭」に参加してきた。
平成の市町村合併により、今では近隣の市の会館となった「もとは町民ホール」だったこじんまりとした音楽ホールで行われる「地元の楽団が集う秋の音楽祭」への参加である。
僕は今年の2月あたりから10数年ぶりにトランペットの練習を再開し、3月から比較的近隣の市民ビッグバンドに加入させてもらいラッパの練習に勤しんでいる。
そしてその楽団で練習を再開したことを昔のバンド仲間に8月に伝えたところ、僕の仕上がり具合など関係なしにそのバンド仲間から「彼の参加している割と離れた町の楽団」にも参加することを請われ、夏の終わりからはそちらにも顔を出している。
1週間前の演奏会はそちらのバンドでの出演で、朝から割と離れた田舎町まで出掛けてほぼ一日仕事でステージにあがってきた…という訳だ、もとい、訳です。
田舎町の音楽祭なんて、地元の下手くそなブラバンの中学生とか「とにかく音楽をやってることが嬉しくて仕方ない」みたいなおっさんやらおばさんの集いのように思う方が多いと思う。
先週の音楽祭は「紛うことなくそんな演奏会」だったのだけど、心が洗われるような気持ちで一日を過ごしたのだった。
既に30年くらいの歴史を積み重ねてきたこの演奏会の主役は「この田舎町で音楽を始め、そしてここで音楽を続けてきた演奏家たち」なのだと感じた。演奏のレベルはどうであっても、このステージを通じて、この町の音楽文化が脈々と継承されていることを強く感じされられる演奏会だった。
これは僕がこの町ほどではないにせよ、田舎のちいさな町でブラバンに加入して、そして長い沈黙期間はあったものの48歳の今、再びラッパに取り組むことを嬉しく思う環境にいる…という僕個人の生活背景があってこそ感じることなのかも知れない。
しかし、中学生たちの本当に拙いJポップ楽曲のブラバン演奏とMC、そして少し上手くなった高校生ブラバンの演奏、更には彼らが大人になった時の姿を彷彿とさせる社会人吹奏楽団の演奏を聴きながら僕は流れて来る涙を止めることが出来なかった。
音楽を通じて人に聴かせるにはそれなりの技術が必要だ。それを伴わずに自己満足に終わる演奏を軽蔑する数年を送っていたが、「技術などなくとも直向きな姿勢が感動を呼ぶ演奏となること」を僕はこの秋、初めて体感したような気がする。