datetaira’s blog

日々の生活で思うこと

貧乏料理から得られるもの

「年末年始の休みモード」もついに過去の思い出となった気がする。今年が始まってからもう2週間になるのだから、それも当たり前か…。

生活を通常運転に戻すための激変緩和措置のような三連休は僕は酒を飲まずに過ごした。普通に健康的な日常を送っている方からすれば「それが何か…」と言うようなことなのだろうけど、僕が3日も酒を飲まずに過ごすのは割と珍しい。

さて、そんな三連休の最終夜に僕は「割と訳の分からんもの」を調理して食べた。

これは小麦粉溶いたものを焼いただけものだ。

晦日に子供たちに振る舞うために張り切って天麩羅を揚げたのだが、その衣にする薄力粉を溶いたものが残っていた。

1/2に残っていた天タネを使って一人寂しく天麩羅を揚げてみたりしたのだが、そいつは特に美味いものでもなかった。やはり天麩羅はそのタネが御馳走素材なのかどうか?ということより「誰と一緒に食べるか?」が重要なようだ…と思った。僕が自慢する自作の天麩羅なんてものもそんなレベルの美味しさなのだ…。

さて、一人で天麩羅を作ってみたところでそんなに沢山の揚げ物を欲しいわけでもないし、余ること前提で揚げまくったところでそいつらを美味しく食べられる訳でもないので、それでも少しだけ残った衣のもとをタッパーに保存していた。

薄力粉と少しの片栗粉と塩と水。僕は天麩羅の衣には卵液を用いない。経験的にはその方がカラリと揚がるから…。

そんな10日も昔の残り物を冷蔵庫に保存している僕も「どれだけどケチなんだよ!」と自分でもそのセコさに呆れそうになる。しかし、僕は食べられる可能性のあるものを捨てるのが惜しくて仕方ないし、それは食物に限らず「まだ着られる服飾とか雑貨全般」について勿体ないと思ってしまうのだから、到底ミニマリストになれない体質だ。

出来上ったものはパッと見は何かの練り物なのか?或いはセブンイレブンブリトーのような形状の食物が出来たのだけど、これは天麩羅の衣にするためのものを玉子焼き用のフライパンで薄焼きにして、間にマヨネーズとソースを垂らして折り畳んだだけのものだ。

特に出汁を効かせた訳でもないそいつは当たり前に「小麦粉を焼いてソースとマヨネーズで味付けしただけのもの」の味がした。シンプルな味付けを好む僕であるが、こいつを特に美味いものとも思わなかった。

夜遅くに「なんだか訳の分からん貧乏料理」を食べた僕はベッドに入ってからその見窄らしい料理のことを考えていた。

昔、テレビでやっていた「ビッグダディ」ではお金が足りなくて米が買えない時には小麦粉を焼いて食べる…ということを当時、小中学生の子供たちが言っていた。そして、戦後復興期のバイタリティに溢れた漫画「はだしのゲン」にもメリケン粉というワードが出ていたようにも思い出された。

どんな貧乏料理でも楽しく少しでも美味しく食べられるような工夫をすることが生活力の一つだと信じているのどけど、それを食べていたビッグダディのウチの子供たちは今現在、幸せに過ごしているのだろうか?

そんなことを気にしながら「いや、貧乏料理にもそれなりの美点はあるが、それだけではみみっちい幸せしか得られないのだろう…。人はある程度の贅沢にも接して精神性を培うことも大切なのでは…。ものを勿体ないと考えることも大切だしな…。う〜ん.、よくわからんな…」なんて考えていたら、そのうちに眠ってしまった。