金曜日の夜から日曜日の昼まで舎弟が遊びに来ていた。
秋らしい食物に舌鼓を打ち、美味い酒を飲もうという目的で、僕のウチに2泊して朝も夜も楽しく酒を飲んだ。
食べた順ではないし、全ての献立ではないが、この宴席で印象的だったものを書き留めておく。
煮染めを炊いて思うのだけど、多くの人が「スーパーなどで売られている液体のものとか粉末のもの」を普通に出汁と呼んだりする。少なくとも僕は、そうした「化学調味料とか工業製品」のことも出汁と呼んでいた。
そして、自分で昆布と削り節でひいた出汁も出汁なのだから出汁と呼ぶのだけど、工業製品と区別化するために「ちゃんととった出汁」とか「丁寧出汁」なんてふうに呼んだりもしていた。
これはおかしなことで、普通にちゃんと取ったものが「出汁」なのであり、粉のやつとか液体のやつは「化学調味料とか市販の麺つゆ」と呼ぶ方が正しい。
化学調味料を使わずに出汁で炊いた煮染めは本当にすっきりとしているのに旨味が濃い。それでいて野菜の持味をしっかり引き出す…という本当に不思議なくらいの美味い煮染めになる。
化学調味料は手軽で便利なものだけど、やはり嘘くさい過剰な旨味があるし、食べた後でも舌に化学的な嘘の旨味がまとわりつく。この「まとわりつく旨味」がないと味が足りないと思う人も多いのだろう。
料理のレシピをネットで見たりしても、洋食なら何でも仕上げに化学コンソメ、和食であれば化学的なカツオ粉末出汁、そして特にジャンルを定めずに鶏ガラスープの素を振りかけるレシピが多い。
これらを食べている人たちは、せっかく食物そのものが持つ素材の味に工業製品的な味付けを無理やり上塗して喜んでいるという恥ずかしい行為を行っていることに気が付いていないようだ。
日々、口に入るもののことをしっかり考えないと、美味いものを美味いと感じられなくなるのではないかと心配になる程である。
そんな出汁を取り終えた出汁殻で作る佃煮。
細切り昆布と削り節のくず、そこに酒と醤油だけを足して水分が飛ぶまで煮る。途中で山椒の実も加えて香りよく仕上げる。
これは酒にも合うし、熱いメシにも合う。そして冷や飯を茶漬けにする時にもよく合う。そう言えば、僕は弁当にもコレをよく使う。熱いメシの間に佃煮を挟み込む、海苔弁の中間層の海苔の代わりにこの佃煮を用いるのだ。
すっきりとした出汁で作る煮麺。
九条葱と油揚を炊いたものが具材となる。
これも麺料理というよりも出汁料理、お汁を楽しむものとして宿酔の身体に染み渡る味わいだった。
出汁のことばかり書いたが、これが今回の主役の一つ。藻屑蟹である。去年の秋も食べたが、当たり前のように今年の秋も食べる。これを食べて、土佐鶴を飲む行為が「僕にとっての秋そのもの」なのである。