外食における「価値」

先週末は友人が遊びに来ていた。
僕が「舎弟」と称す、仲の良い年下の友人だ。


奴が我が家を去る日のことだけど、我々は朝から腹を空かせていた。

平素から自宅のメシを礼賛する僕ではあるが、舎弟が遊びに来ている間は、手の混んだものやら常備菜などのその時には手を加えていないものを含めて存分に自宅メシを楽しんだので、何か食べるならば外のメシを食べたかった。

そんな時に「どうにも食べておきたい外食」があればいいのだけど、残念なことに今僕の住む街にはそういう魅力を持つ店が極めて少ない。他所から来た人に表で振る舞いたくなるようなものは僅かしかない。ピザと手羽先焼きくらいで、美味いラーメン屋にも乏しければ、うどん屋すらない。

ここで言う「振る舞いたいと思うもの」と言うのは、大した御馳走ではないが、日常のメシとして心身ともに満足するようなもののことである。


朝の街をぶらつくと何か見つかるかも知れない。
落ち着いた喫茶店でクラシカルなモーニングを食べてもいいだろうし、朝からやっているラーメン屋にも惹かれるものがあるかも知れない。労働者向けの定食屋で朝定でもあればいいのだけど、それは無いに決まっている…。

そんなことを考えながら、舎弟とともに朝の街を散策した。

結果、この街には我々の希望を満たすものを何一つ見つけられず、帰宅してお茶を飲んで空腹を紛らわせて、早めの昼メシにトンカツ屋に行こうと言うことになった。


外食における「価値」なんてものは人それぞれである。自宅でメシを作ることがないから外で食べるのだ…という理由だとしても、台所や鍋などの作る環境が整っていないからという人もいれば、能力が至らずに美味いメシを作れないからという人もいる。

ウチで食べても環境的に寛げず美味しく感じないからと言う人もいるだろうし、単に外食の味が好きだからと言う人もいる。

色々な理由で人は外食をするのだろうけど、僕においての「外食の価値」は自分で作ることの出来ないものをどれだけ安価で食べられるか?というのが一番大きい。

自分である程度の再現が出来る料理をわざわざ外で食べようとは思わない。勿論、再現出来そうな料理であっても、そこに相当の手間が掛かるのならばそうしたものは外食する。

外食の味と雰囲気について考えると、僕は食べ慣れた自分の料理が好きだし、自宅の環境もとても好きだ。店の雰囲気がいい!と思うようなところに行くと、やはり相応に値段も高いのだから、費用対効果で考えると雰囲気を満たす店には滅多に行けない。料理をすることや後片付けも苦にはならないので、それでも料理が面倒になった時に外食という手段を選ぶ。


舎弟と訪れたトンカツ屋は、僕も一人でたまに行くチェーン店だ。ここはキャベツもご飯も味噌汁もお代わり自由なので、支度をせずに沢山食べたい時にはそれなりの価値のある店だと思っている。

この日もキャベツを思い切りお代わりして、メシも味噌汁も存分に食べた。トンカツを食べたくてトンカツ屋に足を運んでいるのだけど、それも自分で刻んだものよりも随分と美味いキャベツを沢山食べられるから…というのが、大きな魅力になっているのだと思う。




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このトンカツ屋では、トンカツに胡麻が付いてくる。この食べ方はこの店が発祥であると自慢気に記されていた。別に自慢気に言う程のことではないし、むしろ邪魔だ。豚肉の旨さがソースだけでも相当かき消さられるというのに、そのうえ「胡麻化す」なんて、カツに失礼だと僕は思っている。