22年 不味かったもの大賞

今年もあと数日で終わる。今日を含めると今年も残すところあと3日となった。3日で僕は何食の食事を摂るのだろうか?少なく見ても1日2回で6回の食事の機会はあるはずだ。

6度の食事のチャンスが有ればそこで意図せずに不味いものに出会ってしまう可能性もあるのだが、そんなものには遭遇せずに残された今年を過ごそうという決意も込めて「今年食べた不味かったもの」について記す。

僕は基本的に僕の作ったものを食べて生活している。先日、このブログに書いた「食べたもので作られている」ではないが「僕は僕が作ったものにより作られている」のだ。

日々の昼食も8割方、自分で作ったメシを会社に持参して食べているし、昼食以外で外食をするのは月に一度くらいの頻度かと思う。これは夜、外で飲むことも含めてなので本当に外食することが少ない。

…と、思い出していたら、スーパーなどで惣菜を買ってきて食べることも意外に多くあるので、何も僕が作ったものばかり食べている訳でもなかった。

さて、僕が平素どんなものを食べているのか説明したのは、不味いものに遭遇するということは「その食べ物の実力としての本当の不味さ」を味わうことでもあるのだが、「味への期待値との落差によりその不味さが形成されるものなのだ」と痛感させられたからだ。

前述の通り、僕はスーパーの惣菜を買って来て食べることもあるが、それらがとても美味しかったという記憶はない。作らずにさっと食べられるから便利ではあるので不味いものを食べているような気持ちになっていないのだが、果たしてそれらが美味しかったのか?と思い返してみると「特別に不味くはなかった」というだけで、決して美味いものではなかったように思い出される。

しかし、スーパーの出来合い惣菜なんかにそもそも大した美味さなんて求めていないから、なにもがっかりしないのだ。最初からそんなものなど美味くないものだと信頼(?)しているから、期待を裏切られることなどなく、僕と出来合い惣菜は良好な関係を続けていられるのである。

同じことがマクドナルドでも言える。あそこのハンバーガーと僕の間には「ちゃんと不味い」という信頼関係があるから、マックの何かを食べて特別にガックリすることもない。ちゃんとその不味さを信頼しているから僕は滅多に行かないのだ。だからこそ、適切な距離を保てているのだ。

 

そんな中で、今年、僕の味覚に相当な衝撃を食らわせてくれたのがこちら!

山田うどんである。

ゴールデンウイークに都内に引っ越した息子のところに出掛けた際に遭遇したものだが、この衝撃は凄かった。

「パンチ」というモツ煮込みの付いたうどんとかきあげ丼のセットを食べたのだが、パンチのパンチ力のみならず、うどんの麺のプツプツ感や醤油をお湯で伸ばしただけのような出汁とか、とにかくメシの量が多ければ腹いっぱいになるだろうという感じで炭水化物テクスチャ満点のかきあげ丼とか、すべてのメニューが渾然一体となって不味さを演出していた。これは凄まじい連携であり、地獄のようなハーモニーだった。

僕はこの連携技のことを知りもせず、埼玉県民のソウルフードという触れ込みにより完全にGUARDを下げた状態で無邪気に「山田うどん」の危険水域に足を踏み入れてしまい、臭みの効きまくったパンチのアッパーカットに沈められたのだった。その破壊力は凄くて、埼玉の食物全てがとにかく不味いのだろう…と信じ込ませる程のものだった。

しかし、今後この衝撃を体験することはないだろう。ここまで不味さものだと知っていれば、次に食べるときには「ちゃんと不味いもの」として口に入れるので、不意打ちを喰らうこともないからだ。

不味さというものは期待値との落差で生まれるということがよく分かった。まあ、山田うどんには二度と行くこともないだろうから、僕の口にアレが入ることも無いのだけど…。