「いもむし」の更なる続き

僕のウチのプランターに早くも現れたいもむしはカブトムシの幼虫だったに違いない。

記憶が鮮明ではないが頭もオレンジ色ではなく黒褐色だったように思うし、何よりも動きが鈍かった。

農協の堆肥の袋に詰められて、ある程度の距離を移動して、そしてとあるウチのベランダで新生活を始める。この幼虫の母親は我が子の無事を祈っていたに違いない。自然豊かな牧場から意図せずとは言え、都会での一人暮らしを始めた幼虫がゲシュタポユダヤ人のような感じであっという間にその命を失ったことなどを考えていると、なんだかやり切れないような気持ちになった。

コガネムシとカブトムシの幼虫の命に何の差があるのだろうか?コガネムシならベランダから投げ捨てても平気で、カブトムシならその生い立ちの背景まで想像して命を慈しむ……これはどうなのだろう。そんなことを思い、僕はまんじりともしない一日を過した。

 

 

さて、その後。

その時も僕は「命ひとつの重さ」のことを考えていたら、40年以上昔に読んだ「ある話」を思い出した。

間違って蝶々を殺してしまったクマの子は、その亡骸を埋めるお墓を作っていた。そこに現れるキツネなどの仲間たち。

蝶々を殺したら泣くくせに、おまえはこの間、テントウムシを潰しても平気にしてた。と指摘されて混乱するクマの子…。

そんな話なのだが、キツネの台詞が現実と言うものをしっかりと示唆していた。「こんばん、ビフテキを食べる時にはもっとわんわん泣くんだぞ!」

そう、僕にとっては必要なものと不必要なものがある。カブトムシは愛玩動物になり得るが、コガネムシは害虫なだけだ。コガネムシは必要ないし…というか不必要極まりないやつだし、その幼虫に命の価値などない!そう考えなくては、僕までもが、刺身を食べる時には魚の死を悼んでわんわん泣かなくてはならなくなるし、玉子かけを食べても涙を流さなくてはならなくなる。

そんな訳で「まずはカブトムシのご遺族の方にお悔み申し上げます。先日の事故は私としても大変遺憾に思っております。両者の背格好が酷似していたことによるやむを得ない事故ではございますが、今後は再発防止に向けて最善の策を取る所存です。まずは頭の色を確認してからベランダの外に……」こんな風に捉えることにしている。