経年変化と経年劣化

ジージャンのエイジングのためにガキガキに糊付けするようになって何年か経つが、これは今でもちゃんと続けている。

糊付けの利点は「とにかくカッコよくジージャンが育つこと」だ。お洒落のために着る服なのでお洒落であることが唯一最大の存在価値だ。

ジーンズ…というかデニム生地は着込んでいっての経年変化が本当に楽しい服飾だ。勿論それにはそもそもの生地の良し悪しもあるが、どこまでケア出来るか?でその成長は大きく左右される。

僕は糊付けする時に原液の洗濯糊をジージャンに塗り込む。原液とは言え一度塗り込んで乾かしたくらいでは硬さが足りない。2回くらい塗るとようやく「バキバキのイイ硬さ」になってくる。

こうなるとジージャンは自立する。

これを着込んで寝るのだが、以前は肩が凝って仕方なかったのに最近では特に苦痛を感じなくなった。むしろ丈夫なよろいに守られているような気になる程で、変な安心感みたいなものすら抱く状態だ。これがいいことなのか?悪いことなのか?は判断力しかねるのだけど…。

こうして着込んでいくジージャンも随分と味が出てきた。エイジングというものが経年劣化のことを指し、その劣化の具合が「人によってはカッコよく見える」というだけのことだから、味が出てくるのと同時に傷みも出てくる。既に袖の内側が擦り切れ始めているし、ステッチの糸が切れた箇所も散見される。

細心の注意を払いながらも「道具なので使ってなんぼ」とばかりに、ラフに着こなす。こうしたスタイルによって積み上げられるカッコよさこそ本物なのだろうと思う。

 

昨夜のメシ

先週の後半は会食が続いていたので自炊も疎かになっていた。ただ、これは先週末に限ったことではなくて、どうもここ最近、ちゃんとしたメシから遠ざかっていることを反省している。

年明けから過食が続いていて、酒にしてもメシにしてもどうも美味しくない。きちんと作ったものを食べることも重要だが、何を食べるかというよりも「食べる側の食欲が健全か?」ということの方が重要であることを痛感する。

これまでは数日、食べ過ぎないように過していたら胃腸の調子も良くなり、酒もメシも美味しく摂取出来るようになるのだけど、年明けからはそんなことをしていても「ちょっとしたはずみ」で食べ過ぎてしまい、なんだか胃の重い状態にすぐに陥ってしまっている。良くないことだ。

そんなことを思いながらも、昨夜はカレーライスを作って食べた。白粥とか絶食したりしないから、良くない過食スパイラルから抜け出せないのだけど…。

数日前にもカレーライスを作って食べていたが、この日のカレーは牛筋を用いたもの。スーパーで安価な牛筋を見付けて喜び勇んで買ったものを柔らかく炊いていたのだが、これを特に消費する予定もなく、そのうちに古くなりそうだったので安易ではあるがカレーにしたものだ。

安かったり良質の食材を見付けると買わずにいられない質は全く変わらない。子供たちと一緒にメシを食べることも割とあった時の習性のまま、イイ食材を見付けると僕の消費能力を無視してついモノを買ってしまうのだ。この「食材に対する意地汚さ」も僕の過食を助長している…。

 

今年50歳になってから胃腸の衰えを強く感じる。気持ちのうえでは「このくらい食べても平気だ」と思うものを食べると翌日の胃の重さがあまりに大きかったりする。

そんなことを感じ続けているのだけど懲りずに食べる僕という人間はよくよく食い意地の張った奴なのだと呆れたりする。

コロナ変化から1年

先週は水曜日、木曜日、金曜日と三夜連続での会食だった。僕は酒を飲むことは好きだし、3日続けて飲むということも特に珍しくはないのだが、3日続けて人と飲むのは実に珍しいことだった。

コロナが流行ってから、僕は本当に外で飲まなくなった。この習慣は今でも続いていて、沼津に越してきてからも滅多に外で飲まないから沼津の美味しい店なども知らない。自宅でそれなりに美味しいものを食べるのである。

コロナ以前までは外で飲むことの価値をちゃんと考えることもなく、惰性で習慣のように、それこそ普通のことのように外のどうでもいいような店で飲むこともあったのだが、外食自体が普通のことではなくなると「どうでもいい店で飲むことの愚かさ」にちゃんと気付けるようになった。

そんなことに気付くかどうかも関係なく、外で飲むことが禁じられるような雰囲気だったので、これにより、閉店した店も多いのかと思うが、それは「日本の洗濯」のようなものであり、僕から見るとコロナの良かったことの一つだと思っている。

そして、気軽に人と飲みに行かなくなったことはコロナの良かったこと、功績の一つなのだけど、この功績は徐々に失われ始めている。

それまでは全く感じていなかったのだけど、コロナにより人と飲まなくなり、自宅で自分ひとりとか余程仲の良い仲間と一緒にゆっくりも飲むようになり、時間を有効に使えることに気が付いた。人と飲むことを当たり前だと思っていたが、それには金も時間もそして気も遣う。これがなくなることがこれほど快適だということにコロナが気付かせてくれた形だ。

コロナの間も僕は酒を飲んでいた。そして、酒好きな仲の良い仲間とも「禁酒法時代のシカゴの街でこっそりと秘密のバーに集まる」ような感じで我が家で一緒に飲んでいた。

我が家に呼びたくないような人というのは、やはり特に仲も良くなく人で、そんな人とは飲まなくても全く支障がないし、むしろストレスを感じずに距離を取ることが出来て快適だった。

 

コロナが第5類に引き下げられてから1年になる。別に病気としての質が変わった訳でもなければ、特に特効薬が登場した訳でもない。本質的なものは何も変わらないのに、人の生活スタイルはこの1年で大きく変わった。

僕はコロナの間も基本的にはマスクをかけなかったし、得体の知れないワクチンにも接していない。大前提として人混みに出掛けることは避けたし、人との接点も極力減らした。

しかし、個人の安全を確保したうえで旅行にも普通に出掛けていたし、会食も行っていた。あの時期は観光地も空いていたし、ホテルも安くて本当に良かったが、「コロナ5類」以降、その快適な環境は崩れてしまった。

あれだけマスクを好きだった人がマスクもせずにそこらの観光地に沢山いるのだ。ホテルもこれまでの分を取り返すかのように値上げした。

この掌を裏返したかのような変化は国による規制の有無によるものだと思う人も多いかと思うが、どうでもいい規制を鵜呑みにして同調圧力まで醸し出すような馬鹿な群衆が日本に多いことの方が影響しているのだと強く感じる。

ものの本質を考えず、決められた事にはなんとなく賛同し、決まったことの是非を考えることも放棄するような馬鹿のことだ。

この手合が本当に多いから、意味もなく経済にブレーキをかけるばかりの行為に同調し、それらが解禁されるとその失敗や責任の所在を考えることもなく、何事もなかったのように以前の生活に戻る。

以前の生活に戻すなら戻すで、何が失敗だったのか?こうした失敗の防止策は何をすべきだったのかの検証しない政府。政府の馬鹿騒ぎ加減を糾弾しない群衆。人の「考えることを放棄する」度合いは確実に進んでいる。

「名もなき麺」の続報

3ヶ月くらい前に書いていたものが下書きに残っていた。そちらの加筆版を本日はアップする。

 

この正月、我が家に遊びにやって来た長女から「名もなき麺」というものの話を聞いた。

https://datetaira.hatenablog.com/entry/2024/01/19/114723

要するに「インスタントラーメンとかそこらスーパーなどで買う麺なんてものは特にブランド化されたものでなくても、食べりゃそれはそれで美味しいし、まず安いよ!」という話である。娘とこの話をしてから僕はやたらに「名もなき麺」への関心が高まったようだ。

なんて言ったところで、僕が簡単に足を運んでいる生活範囲には割と高級(?)なチェーンスーパーしかないから、そんなにニッチな品、この場で言うところの「名もなき麺」に遭遇することもそんなに無い。

そんな状況下で、数日前のことだけど散歩に出掛けると色々なものを発見した。その一つがこれまであまり見たことのなかった「名もなき麺」たちである。

初めて目にするわけではないが、ここ最近の僕が滅多に目にすることなかった珠玉の「名もなき麺」たちだ。

一流ブランドの「サッポロ一番」は500円近い価格(5食セット)で売られているたのに対して、その半額くらいの値段で売られる麺たち…。それらの品質がブランドものの半分なのか?というと決してそんなことはないだろう。

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以下は4/18に加筆。

この日は散歩をしていて、なんだか新鮮に目に映るものがないかと沼津のローカルスーパーに入店した。そこで見かけたのが写真のラーメンなのだが、大手のスーパーはプライベートブランドの安い「名もなき麺」を売っている。名もなき麺のくせにそこまでのマイナー感が漂わないのがふしぎなところだ。

写真のラーメンは名前がついていないわけもなく、「サッポロラーメン」「味の大関」という堂々たる名前が表示されているのに「名もなき麺」の称号はこれらのためにあるのではないか?と思うほどの「王道の名もなき感」を漂わせている。価格も名もなき麺らしい素晴らしい安価っぷり。

そして、味は……。というと僕は知らない。これを見つけて面白がってみたものの買う気にはならず、勿論賞味もしていない。その後、インスタントラーメンを買う機会はあったが、僕は迷わず「うまかっちゃん」と「好きやねん」を買った。

面白いけど購買意欲をそそられないラーメンたち。食べることもなくそれらを語ることも出来ないので、今度いつか買ってみたいと思う。

ベランダ菜園 沼津版

沼津に来るまでのウチには広いベランダがあり、そこは陽当たりも風通しも良い気持ちのいい場所だった。室内からの段差もほとんどなかったので、空気の気持ちいい季節にはベランダに椅子を出して酒を飲んでみたりしていたし、敷物を敷いてそこに寝転がって本を読んだりもしていた。

沼津のウチはベランダはあるものの荷物が色々とあるので広々として快適…というのは程遠い空間だし、室内からの段差も20センチくらいはあるので、ベランダで過ごすということの敷居が高いように感じる。

そんなこともあって、それまで熱心に世話をしていたベランダ菜園も全くやらなくなっていたのだが、僕が全く世話をしなくともそれなりに育つ奴らはいた。

9月の下旬に引っ越して来てから、プランターは本当に適当に積み上げて放っておいたのだけど、そんなプランターから幾つかの芽が出ているのを見付けた。12月くらいのことだったのではないだろうか。

その後、勝手に伸びた芽を僕が特に世話をすることもなかったのだけど、ここしばらく気温が高くなってくるのを待っていたかのように、そいつらはグングンと芽や葉を伸ばした。

写真はイタリアンパセリなのだが、知らない人が見るとおよそパセリだとは思わないのではないだろうか?子供の小指くらいに太く成長した花芯は日に日に目に見えて大きくなるので、昨夜そいつをハサミで切り取った。

パセリを「付け添え」ではなく普通の野菜のように食べるのは1年ぶりのことだ。普通の野菜のようにワサワサとした葉を細かく刻んでスパイスとともに炒めてカレーを作った。自分の場所に自分の作物が出来るということはやはり嬉しく楽しいものだ。

…と考えることを見越して、僕は3週間ばかり前にプランターを整理して土に肥料を混ぜ込み、昨年のベランダ菜園で収穫した色々な種を植えたのだった。こちらの成長も楽しみである。

言いたくない辛辣なこと

タイトル「言いたくない辛辣なこと」なんて、日々の生活においては割と沢山ある。

社会で生活をしているとそんなことばかりだ。「取引先との契約終了」「提案いただいたものへのお断り」あるいは「お客からの要望に応えられずそれを断わる時」など…。

ただ、そうしたものは大抵が仕事に関することであり、仕事を切り離した完全に僕のプライベートでは「言いたくない辛辣なこと」など、そんなに多くはない。だが、一昨日の体験はまさにそうしたものだった。

一昨日の昼間、安価に入手したトリ貝はそりゃもうとても楽しみで、帰宅してから熱い風呂に入りすっきりとしてから丁寧に調理した。

…と言っても、塩茹でにして食べるだけだから、それは調理というようなものでもない。しかし、かんたんにポロッと割れてしまうトリ貝の殻を丁寧に扱い、程よいと思われる塩分濃度の塩を入れたお湯で茹でるのである。

 

こうして茹がいたトリ貝がこちら。安価なものだけあって、そのほとんどは既に殻から身がべローンと出ているようなものだったので鮮度抜群とは言えぬものだった。なので、多少茹で過ぎのように熱を入れた方が良いかと思い長めに茹がいた。

年に一度くらいしか接することもない殻付きのトリ貝だ。僕の期待値は最高に達していたことも良くなかったのだろう。その期待を思いっきり裏切るほどに…とにかく、こいつが不味かった…。

これまで殻付きのトリ貝を手に入れた時はだいたい殻ごと塩茹でにして食べてきた。ワタの部分も雑味と言えば雑味なのかも知れないが、独特の味わいがありそれも一緒に楽しんでいた。

しかし今回のトリ貝のワタの不味さと言ったら!秋刀魚など魚のワタのような苦味はないが、個体差によるがとにかく良くない匂いがするのだ。酷いものだとアンモニア臭。

9つばかり茹がいたトリ貝を半分食べたところでその先は全く食べたくなくなった。この半分にしても「あれっ?ま、不味いぞ…。いや、そんなことは無かろう。もう一つ食べてみるか…」と不味さへの懐疑心とか好奇心のようなもので食べ進めただけだから、全く美味しくなどなかったのだ。

結局、残りのトリ貝を捨てるのも惜しく、そいつらはバター焼きにした。困った時のバター焼きなのだ。とりわけ今日のトリ貝については「バターが美味いだけ」で無理矢理食べてしまおうというような代物だ。

バターでソテーするとワタの部分の水分も抜けて味が凝縮される。貝のワタが焦げてくる匂いはサザエの壺焼きと同じような匂いがし…と、こう感じたことをここに記していると「当たり前だろ!魚を焼いた時に鰯を焼いた時と同じような匂いが……って言ってるのと変わりないことだ。」と思った。トリ貝もサザエも貝なのでそりゃ同じような匂いもするだろう。

バターの濃厚さと凝縮されたワタのほろ苦さ…これらが相まって口中に香りが広がる。…と書くと何だか美味そうなものを食べているようにも思えるが、バター焼きにしたところで特に美味いものでもなかった。

大好きだったトリ貝。そしてそれを見つけて食べるのは春も闌になってきたことを教えてくれる季節感溢れる出来事だった。そんなトリ貝のことを悪くいうのは気が引けた。「あれは何かの気のせいとかだったのでは…?」と今でも思いたい。

しかし強い意志を持って言おう。全てのトリ貝が美味いわけではない。なんならメチャ不味いものもある。みんな、気を付けろ!

外で弁当を食べること

昨日の昼間、久しぶりに外で弁当を食べた。…と言っても花見に出掛けて行楽弁当を食べるような雅やかなものではなく、昼に食べようと買った弁当を駅のベンチで食べるという、ごく日常の食事の場所だけが日常ではなくなったものだった。

列車の中で弁当を食べる光景は比較的よく見かけるが(これも特急列車に限るが…)、ホームのベンチで弁当を食べている人は滅多に見ない。僕は歩き食いとかそこらの面でものを食べることにおいて、特に人に迷惑がかからないなら何の問題もないと思っているのだが、駅のホームのベンチで弁当を食べる人はもっと増えても不思議ではないように思う。

この日の弁当は「鶏の照り焼き弁当」500円也。ものすごく美味しい!なんてことはないのだが、可も不可もないような弁当の味も食べる環境が新鮮だとなんだか美味いものを食べているように感じた。まあ、500円という値段のことを鑑みれば、とても良く出来た弁当なのだと思うが…。

 

そしてその翌日、今日もまた僕は伊東に出掛けた。伊東への列車は観光仕様の席の並びになっていて、海を眺めやすいように配置された座席ではちょうど昼時だったということもあり、多くの人が弁当を食べていた。

そんな伊東線の車中で、僕も弁当を食べる。

今日の昼食は自作のサンドウィッチ。薄切りの食パンにバターを塗りマヨネーズと辛子を塗り、厚切りの胡瓜とスライスチーズを挟んだものだ。

この「サンドウィッチケース」はシリコンでパンがプレスされるタイプのもので、保管性や携帯性のみならず、味の面でも高い能力を発揮する便利アイテムだ。気に入っているのだけど、僕にはそもそもパンを食べる習慣がないから、このところめっきりと使用頻度は減っていた。

素朴な味のするサンドウィッチを車内で噛み締めていると、大学生の息子の弁当のことを思い出した。2年前に大学生になった彼は倹約のために学校では自作の弁当を食べていた。

写真は2年前に息子から送られてきたものだが、飯を炊き、肉と野菜を炒めたものを飯の上にのせてタッパーの蓋を閉じる。大学生の下宿料理の典型のようなものだが、この弁当を学校に持参して校内のベンチで食べる息子のことを僕は誇らしく思っている。

この間の春休み、息子にこのところの弁当事情を聞いてみたが、大学生協の購買に安くて美味い弁当が売られているのを見付けたのでたまにはそれを食べるけど、まだ弁当持参生活は続いているとのことだった。

僕が車中でサンドウィッチを食べている頃、息子も大学のどこかで肉炒め御飯を食べているのかと思うと何だか嬉しくなった。