地域性と利便性

夏の休暇を利用して旅に出ている。

昨日は16時間を要して(そのうち14時間くらいは普通電車のシートに座って)、四国の松山までやって来た。

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松山に到着したのは21時過ぎ。
日曜日の夜ということもあるし、何よりもコロナ対策で夜の繁華街は閑散としていた。


好きでやっていることとは言え、一日列車のシートで過ごしていて疲れていた(重労働したわけではなく座っているだけなのだが)ので、美味い刺身と辛口の日本酒で一日を締めたく思ったが、上記のような有様。

刺身が食べられそうで営業している店といえば、ベカベカと看板が光っていて、刺身とカルパッチョを混同して出してきそうな大型店舗ばかりだった。

本当は大将一人と若いの一人でやっているような料理屋が良かったのだけど、あてもなくふらりとやって来た松山でそんな店がどこにあるのかも分からない。女将さんと板さんでやっているような割烹すら僕の歩いた繁華街では見当たらなかった。

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もう、刺身は諦めた!
ならば、潔く町中華でレバニラとビールとかで締めよう!
…と、思っては見たもののそんな町中華すら見つからなかった。


いきなりやって来た松山で調べもせずにふらっと歩いて見た範囲の出来事なので、僕は松山には「料理屋も割烹も町中華すらない」ということを主張しているのではない。


遠く離れた松山の繁華街の顔つきも、例えばだけど東北盛岡の繁華街(これはどこの都市でもいいのだけど…)の顔つきもそんなに変わらなくなってきている。


商業デザインの発展?
いやいや、そんなものではない。
全国画一的な儲かるスタイルの個性のないチェーン店の展開、あるいはそのスタイルを真似た地方独自のチェーン店により、その街、その地方で培われた古参の個人店舗は隅に追いやられている。似たような看板をベカベカと出す店にの手によって…。

これは商業デザインの発展どころか、真似をすることで考えることが停止させられる「退化」にほかならない。


夫婦二人で昭和の頃からやって来た居酒屋、結婚式も葬式も町の仕出しは何だって手掛ける料理屋、街角にあってカレーライスもキツネうどんも、そしてビールもある食堂。絶滅危惧種であるそんな店を本当に見ることが少なくなった。

街から個性が消えていくこと。
それは寂しいことなんだよなあ。
ベカベカネオンは光る、しかし、人はほとんどいなくて閑散とした松山のネオン街を歩きながら、そう思った。

つづく