2022年の桜

このブログに「加齢による疲労」のことを続けざまに書いたのだけど、そんな疲れも一つの要因となって「ブログに書いていない日常のこと」か増えている。

何を書いて何を書かなくてもそれは僕の自由だし、別にこのブログを楽しみにしている人など僅かなのだからどうでもいいことなのだが、やはり気になったことは書き留めておきたいと思う。



さて、今日は桜について。
毎年、と言ってもこのブログを始めたのは2年前のことだから「去年も桜のことを書いた」というだけなのだが、この季節になるとなんだかウキウキするし、そんな気分とは裏腹に生活はバタバタすることが多いし、ゆっくりと桜を眺めていたいのにそんな余裕がないうちに散っていく桜を見てはもの寂しくなったりもする。

今年も「桜が満開を迎えるタイミング」と「僕がのんびりと桜を見るゆとり」は合致しなさそうだ。今週になってからいよいよ咲き誇り始めた桜の花はこの週末に盛りを迎えるのだろう。

天気予報によると今週末は寒の戻りで少し寒くなるようだし天気も良くないようだ。そして、何よりも僕には別の用事があり、のんびりと花見をしている余裕はなさそうだ。


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そんなことをこの数日思っていたら、本当に桜の花は散り始めた。写真は昨日の通勤途中に足を止めてわずかに眺めた桜の花。

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そして夜。娘との勉強と食事を終えてから同じ桜を二人で見に行った。

やることが多くてゆとりのない生活なのかも知れないが、桜を眺めることなんていとも簡単に出来るものだと改めて実感した。


少しでもの何か別の用事があると、ついついそちらが気に掛かって自分の自由時間など無いように感じる人も多いのではないかと思う。

しかし、桜を眺めることなんて「仮に全くのゆとりがない生活」を送っていたとしても、景色の見えない独房に軟禁でもされていない限り、簡単に出来ることだ。

「忙しさにかまける」ことはよくやってしまう安易な逃げ道だし、ゆとりなんてものは自分で幾らでも作れるものだ!これも一理あるし、間違ってはいない。

しかし、僕が一番強く思うのは「桜を見るのなんて大した作業でない」ということ。歩きざまに少し足を止めればいい。もっとゆっくりと見たければベンチに腰を下ろせばいい。世の中の色々な物事は「こちらが勝手に言い訳」してるだけで、実は割と簡単に出来ることばかりなだと思う。