思い違いと思いやり

人の記憶というのはいい加減なもので、先日「5年に1度の殻付き鳥貝」について記述した。

その旨さに舌鼓を打っていたのだが、このブログによると「僕は2年前にも殻付き鳥貝を食べて」いた。

https://datetaira.hatenablog.com/entry/2021/06/13/192037

思い出してみると、この時は沢山ではないけど少しだけ殻付きのやつが売られていたのを見つけて食べたように思う。

2年前のこの時は量もなかったので一人で食べたようだ。そんな出来事をブログに残しておきながら記憶からは消し去ってしまうというのもどうかと思うが、僕のしたことだから仕方ない…と受け入れよう。

さて、そんな鳥貝だが、今年は末娘と一緒に食べた。5年前にも間違いなく食べさせているのだが、そのことも鳥貝の味も覚えていなかった娘に「今一度、鳥貝の味を覚える」機会にしたかった。

茹でたての鳥貝を喜んで食べる父娘。幾つか食べてから僕はもっと食べるように娘に促した。すると彼女は一人あたりの個数を計算していたようで、「パパが久しぶり出会った好物なんだからちゃんと食べた方がイイ。」と返答してきた。

確かに僕の好物ではあるが、僕の舌はこの味を覚えている。思い違いがあって「意外な頻度で食べていた鳥貝」ではあるが、僕の一時的な味覚を満たすことなんかよりも、この先、末娘にとっても「夏前に食べる殻付き鳥貝」が季節の味として記憶に残ることの方が、僕にとっては嬉しいことだった。

娘の思いやりが嬉しかった。そしてその一言のお陰で僕の鳥貝欲は充分に満たされたこともあり「いや、お前にも鳥貝の旨さをしっかり知って欲しいから、残りは皆食べろ。」と指示した。

茹でてしまうと結構小さくなる鳥貝だから、それでお腹がいっぱいになるような量ではない。しかし、僕たち父娘は存分に鳥貝を楽しんだように思う。物理的な量があることも大切だが、美味いものに向き合う際の思いやりのようなものは、その味を数段上のものにしてくれるのだと感じた。