鰯を食べる

節分の夜に鰯を塩焼にして食べた。

スーパーで買ってきた4尾で250円のものだ。形も良く実に美味い鰯だった。弱火でじっくりと焼いた鰯は皮に箸を入れて身を割るとそこから脂が流れ出すほどで、ふっくらと柔らかな身も結構な苦みを持ったワタも旨味に満ちたものだった。

鰯という食物は僕は子供の頃から比較的、頻度高く食べていたように思う。父親が魚をそんなに好かないであろうことは子供の頃からなんとなく感じ取っていたが、数年前に僕の子供たちと一緒に帰省した際に「私は魚が生臭いから好きではない」と孫に喋っているのを聞いた。

そんな父とは裏腹に「生臭さなんて新しいものを食べればなんも感じん!」と曰う母親だったから、手前の亭主の食の好みなど比較的関係なしに僕の育った家庭での食卓には鰯が登場したものだ。

そんな母親が僕が小さい頃によく言っていたのだが、何かの映画で貧乏人のウチの子供が「お父ちゃん、鰯が焼けたよ」と言って、七輪で焼いた鰯を食卓に持ってくるシーンが印象深い…という話だった。「きっと、それは貧乏暮らしを描写するものだったはずだけど、私たちのウチはその映画の家庭以上に貧乏だったから、それも凄く美味しそうに思った」みたいなことを母親は続けた。

そんな情に訴えかけるような情操教育のお陰もあり、僕は今でも鰯という魚を好きだ。人との宴席で食べるものではないのかも知れないが、日々の食卓にあげる菜としては優れたものの一つである。…って言っても、僕が鰯を食べる機会はそんなに多くないのだけれどね。

鰯を食べてそんなことを考える機会を与えてくれる節分というものも割とイイものだな…今夜はそんなことを思いながら、安いウイスキーを飲んでいる。