負うた子に教えられて浅瀬を渡る

タイトルほど大袈裟なものでもないのだけど、今日はそんな風に感じたことを記しておく。


昨年一年前、穀潰しの浪人生活を楽しんだ息子はこの春からなんとか大学に進学しウチを旅立った。

僕よりも年上、築50年くらいのボロいけど快適そうなアパートで一人暮らしを楽しんでいる(はずだ)。

息子はもともと料理をする方でもなかったし、生活力を逞しく持ち合わせているタイプでもないが、メシについては外食はほとんどせずに自炊中心の食生活を送っているようである。

彼からの連絡は殆どなく、僕が電話をして生活の様子を聞き出すのだが、この数週間は「鰯」を買ってきて食べることが多いとのことだった。

グリル付きのガスコンロを友人から貰い受けて息子の下宿に置いてきたのだが、息子は「ありがたいグリルという道具」を使わずに鰯を食べているとのことだ。なんでも、頭も落とさずワタも抜かずに丸のまんまフライパンで塩胡椒で焼いたり、時にはニンニクとオリーブオイルで焼いたりしているようだった。

彼の調理法はさておいて、この時期にイワシを食べていることを「おっ、入梅鰯か!いいなあ!」なんて返したら、「マイワシを食べている」との返答だった。

彼は「入梅鰯」という種類の鰯がいるのだろうと思っているようだったが、特に季節的なものとか旬のものを食べるというような意識はなく、単にスーパーに行けば他の食材と比べて鰯が安く売られているという値段的な理由だけで鰯を食べているとのことだった。


実に正しい「旬の食材との向き合い方」だ!


僕は日頃から食物というか食材の値段を気にして生活しているし、季節の味を噛みしめるように生きていたいと思っているが、「安いからね、鰯は。そしてテキトーな料理なのかもしれないけど、貧しい美味いよ、鰯は。」と言い放った息子の言葉がジーンと響いた。


そんなこともあり、僕は今夜鰯を食べている。

スーパーに出掛けると、真鰯6尾が398円で売られていた。まずは息子と同じように頭も落とさず、ワタも抜かずに食べようと思ったので、シンプルな塩焼きにした。

グリルで焼いて皮の下の脂がグジュグジュいっているやつをたっぷりの大根おろしとともに食べる。

鰯の塩焼きなんてものは、昭和の時代には貧乏料理の代表格のように扱われていたし、特に貧乏でもない我が家でも度々食卓に上っていた。

れっきとした貧乏家庭で育った母親は「なにか昔見たことのある映画で、貧乏家庭の子が七輪で鰯を焼いて『お父ちゃん、鰯が焼けたよ!』と美味そうに家族で食べていた」と、それこそ何度も喋っていた事を思い出した。

グリルも使わず、ワタも抜かずに調理した「息子の食卓の鰯」を食べてみたいとは思わないが、離れていても食の話で家族の絆のようなもの感じる夜となった。