息子の旅立ち

さて、今日から4月で新年度である。

新年度を迎えた僕の勤め先もそれなりに忙しいのだけど、プライベートもそれなりに忙しい。

浪人をしていた愚息がなんとか大学に進学することになり、そんな彼も明日には実家から下宿先へと旅立っていく。

下宿の下準備は僕が行っていて、更には下宿の設備調整も僕が息子と共に行うのだから「親バカにも程がある」という状況だ。

今日は普段よりも仕事が長引き21時過ぎに帰宅したのだけど、そこから息子の下宿に持ち込む家財道具を選定している。

物持ちの良い僕のウチには「当面使うこともないであろうなにかの金具」とかあるのだから、そんなものを整理して持ち出そうと支度をしていたのである。


だらしのない息子がこの街を離れて自分一人のテリトリーを持つことなんて、彼にとってはとても楽しいことだろうし、しかしその一方で子離れしきれていない親からするとそれなりに寂しいものだろうと想像していた。

しかし、その前夜に金具やら彼に与えてもいい食器などの家財道具を整理していると、ちょうど30年前に一人暮らしを始めた自分の時のようにそれなりにワクワクしてきて、今は寂しさなど微塵もなく一人暮らしを始める訳でもない僕がワクワク、ウキウキしている始末だ。


明日の今頃は僕は息子の新居にいて、引越作業に疲れ果てていて、そして酒でもかっ喰らって眠っているのだろう。

成人に近い息子がたかが一人暮らしを始めるだけだというのにそれに一喜一憂するなんて親バカが過ぎるのかも知れない。しかし、そんな感覚を持つのも「今ならでは」と捉えて自己正当化するバカ親がここにいる…。

3月も去り、今年度も終わる。

タイトルの通り、今日で3月も終わる。

今年度も終わるし、今年が始まって既に4分の1が経過することになる。そして僕は今月48歳になった。早い、早過ぎる。


この一年間、浪人をしていた愚息も遂にウチを出て念願の一人暮らしを始める。彼の新生活準備についてはまた別稿に記したい。

今年が始まってからの3ヶ月について振り返ってみたい。
この3ヶ月は中学生の娘との勉強をしていることが多かった。彼女の成績向上も喜ばしいこと…と言うか、そんなに成績も向上はしていなさそうなのだけど、勉強に取り組む基礎的な姿勢を培うことは出来たのではないかと思っている。

それも喜ばしいことなのだけど、中学生と共に勉強することにより、彼女とのコミュニケーション時間が格段に増えたことが一番良かったのではないかと思っている。

日々どんなことを考えていて何に一喜一憂しているのか?家族であればそんな当たり前のことすら僕はこれまであまり知らずに過ごしていた。

勉強も部活も中学生との本分として大切なことだし、それらについて相応の成績を残すことも大切なことだ。しかし、それ以上にお互いが何を考えながらどんな生活を送っているのかを話し合うことの方が大きなことだと感じた3ヶ月間だった。

2022年の桜

このブログに「加齢による疲労」のことを続けざまに書いたのだけど、そんな疲れも一つの要因となって「ブログに書いていない日常のこと」か増えている。

何を書いて何を書かなくてもそれは僕の自由だし、別にこのブログを楽しみにしている人など僅かなのだからどうでもいいことなのだが、やはり気になったことは書き留めておきたいと思う。



さて、今日は桜について。
毎年、と言ってもこのブログを始めたのは2年前のことだから「去年も桜のことを書いた」というだけなのだが、この季節になるとなんだかウキウキするし、そんな気分とは裏腹に生活はバタバタすることが多いし、ゆっくりと桜を眺めていたいのにそんな余裕がないうちに散っていく桜を見てはもの寂しくなったりもする。

今年も「桜が満開を迎えるタイミング」と「僕がのんびりと桜を見るゆとり」は合致しなさそうだ。今週になってからいよいよ咲き誇り始めた桜の花はこの週末に盛りを迎えるのだろう。

天気予報によると今週末は寒の戻りで少し寒くなるようだし天気も良くないようだ。そして、何よりも僕には別の用事があり、のんびりと花見をしている余裕はなさそうだ。


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そんなことをこの数日思っていたら、本当に桜の花は散り始めた。写真は昨日の通勤途中に足を止めてわずかに眺めた桜の花。

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そして夜。娘との勉強と食事を終えてから同じ桜を二人で見に行った。

やることが多くてゆとりのない生活なのかも知れないが、桜を眺めることなんていとも簡単に出来るものだと改めて実感した。


少しでもの何か別の用事があると、ついついそちらが気に掛かって自分の自由時間など無いように感じる人も多いのではないかと思う。

しかし、桜を眺めることなんて「仮に全くのゆとりがない生活」を送っていたとしても、景色の見えない独房に軟禁でもされていない限り、簡単に出来ることだ。

「忙しさにかまける」ことはよくやってしまう安易な逃げ道だし、ゆとりなんてものは自分で幾らでも作れるものだ!これも一理あるし、間違ってはいない。

しかし、僕が一番強く思うのは「桜を見るのなんて大した作業でない」ということ。歩きざまに少し足を止めればいい。もっとゆっくりと見たければベンチに腰を下ろせばいい。世の中の色々な物事は「こちらが勝手に言い訳」してるだけで、実は割と簡単に出来ることばかりなだと思う。

続 加齢

前回のブログに続き、加齢について書き留める。

バンドとジージャンと地震……「部屋とYシャツと私」ではないが、そんな3点セットによる疲労をようやく取り去った連休明けの夜、僕は職場の送別会に参加していた。

7名での会食であるが、これ程の人数で酒を飲むのは久しぶりのことだ。職場の仲間とは言え、プライベートで飲むほどの間柄ではない。


「送別会」という大義名分があってこそ成り立つ仲間たちとの会食なのだけど、楽しい仲間たちとの夜なので飲み過ぎた。

火曜日の夜のことだが、今現在、土曜日の夕方になってもこの疲れが抜けない。

火曜日以来、酒は飲んでいない。翌日は勿論のこと、その翌日も翌々日になっても酒を全く欲しくないくらいにダメージを喰らったのである。前述の3点セットによるダメージを遥かに凌ぐほどの被弾だ。

48歳を迎えた3月の後半はとにかく体力の低下を実感させられることが続いている。そんなうちにあっという間に3月は去って行こうとしている。

焦っても仕方ないが悠長に構えていては老化はどんどん進んでいく。ちょっとしたことであってもバイタリティ豊かに動ける身体を取り戻すべく、努力を続けたい。

加齢

先々週、初めてのバンド練習に参加したことはこちらのブログにも記したとおり。あまりにも久しぶりとなる楽器の練習は予想を遥かに上回って疲れるものだった。


そんな初練習と時期を同じくして、僕はジージャンをカッコよくエイジングさせるためにパリッと糊付けしていたこともこちらに書いた。

久しぶりのバンド練習から帰宅した僕はパリパリに糊の効いたジージャンを来てその夜は眠った。


このブログに書いた「ジージャンの糊付け作業」は一回だけだが、実はその翌日にも洗濯糊の原液に漬け込むという数段キツい糊付けを行っていたのだ。この糊付けにより僕のジージャンはパリパリどころか鎧のようにカチカチに仕上がった。一度糊付けしたのだけど、まだ靭やかな気がしたのでもっと硬く仕上げてやろうという意図によるものだ。

そんなものを羽織ってボタンを全て閉めて眠るのだからぐっすりと眠れるはずもなく、更には翌朝には肩や背中が寝違えたように痛くて堪らない状態に陥った。

この痛みがジージャンのせいなのか?ラッパの練習のせいなのか?多分、両方によるものなのだろうけど、熱が出る時に関節が痛むような痛みに襲われ、とにかくしんどい数日を過ごしていた。

練習にしてもカチカチジージャンにしても、そんなにダメージを喰らうほどのことか?僕の身体は完全に鈍っている。この状況は情けないことだが、これから鍛えていけばいい。ラッパとデニムなんて、本当に学生の頃に没頭していた「元来得意とするところ」ではないか!


…そんなことを思っていたら、ある夜、地震が起こった。その夜は末娘と勉強を済ませて彼女を送り届けた後、リラックスするためにウイスキーを飲み始めて間もなく東北地方で割と大きな地震が起きたのだった。

数杯のウイスキーを飲み、いよいよ腰を入れて本気で飲もうとし始めたところだったが、僕は職場へと向かった。ウチで酒を飲んで寛いでいたかったのだけど、これも仕事だから仕方ない。


深夜の24時頃〜朝の5時前まで。アルコールの回った状態での勤務はとてもしんどいものだった。そして翌朝は8時半からまた仕事……。

肩や背中の痛みがようやく治まったと思ったら、寝不足による全身疲労である。翌日もその翌日も酒など欲しくなく、早めに眠ったと思うのだけど、この疲れがなかなか取れず、ようやく回復したのは春のお彼岸の三連休が明けてからのことだった。


何をするにしても自分で思っている以上に僕の身体は「なまくら」になっている。ちょっとしたことで異様に疲れる、そしてその疲れが解消されない…。身体中に付いた贅肉と一緒で長い時間をかけて離れることのないように身体にくっついた加齢の証拠品である。

老いることは避けられないことだが、身体の劣化のスピードは努力によって抑えることが出来る。豊かな生活を送ることが一番!とばかりに料理を行い酒を飲むばかりのライフサイクルがこの劣化を招いたことは間違いない。

目を背けたく、自分の情けなさばかりが際立つことであるが、どうにかしなくてはならん。と思う。

この一週間を振り返られない

このブログの前回の記事で「この一週間は盛り沢山だった」みたいな事を書いた。

そのとおり、今週は色々なことが起きた。 

先週の土日から振り返ると「チャリンコ移動」「ラッパの練習」「それに伴う肉体疲労」。そんなことはこの間にブログにも書いた。

まだ書いていないこととして「ジージャンの糊付け」の続報があるのだけど、それはまた別の機会で記したい。


なんでもいいのかも知れないけど、なにか行動を取るとなにかが動き始めるものだ。別に村上春樹みたいに謎めいたカッコいいことを書きたい訳でもなくて、今日、本当に体験したことを記しておく。



今日も先週に続いて市民バンドの練習に行ってきた。
18:00〜21:30で郊外の学習センターの練習室が予約されているそうなのでそこに赴いたたのだけど、バンドの人たちは誰もいなくて寂しい思いをした。

僕の参加するバンドは別にピシピシの時間とかカリキュラムが決められていて、それに合わせて皆が練習する訳ではないようだ。練習時間も自由だし、サウンドの作り方も自由!フリーダムでリバティなイイ楽団だ。


自由度の高いバンドに参加をすると、僕の良くない癖として認識しているのだけど、そのバンドに対して過剰に干渉してしまう癖がある。

僕は「一時の練習期間に練習性として置いてもらっている」立場だと思うようにしている。僕自身がラッパの練習をちゃんとやるために楽壇に参加させてもらっているような塩梅だ。

そんなバンドであっても、いざ参加してみると「このバンドをこんなふうに育てたい」とか「ここをこうすりゃカッコよくなるのに…」みたいなことばかり思いつく。

新規加入したヤツがそんなことを言い出すと古参メンバーが面白くないことなんて、僕もその立場を経験してこともあるからよく分かっているつもりだ。

しかし、口を挟みたくて仕方ない。
先週の出来事をこのブログに纏めようと思っていたのだけど、そんな過去のことはどうでもいい程にバンドのこの先の練習カリキュラムとかが気になって仕方ないのだ。


そんなことを考えていると、本当に「過去を振り返っている暇」など無いのだ、僕には。

そんな言い訳めいた事情でこの一週間をちゃんと振り返らないのだけど、落ち着いたらちゃんと纏めるのでそれを待っていて欲しい。

続 ラッパの練習

今週はこのブログに書きたいことも目白押しの「いろいろなことを感じた」一週間だった。

まず、前回の記事で書いたラッパの練習についての続きを書き留めておく。


一週間のことになるが、意気揚々とチャリンコで向かった市民楽団のメンバーたちは善良そうな人たちで、久しぶりにプライベートで「こういう人たち」と会ったように思う。

これは僕が平素のプライベートにおいて悪人とばかり会っているという訳ではない。この2年くらい、本当に人と会うことなど少なく、初対面の人と数時間過ごすことなどなかったから、善人だろうが悪人だろうがとにかく人と会うこと自体がとても久しぶりなことなのだ。


楽団の練習は13時〜16時30分までだったのだけど、こんなに長い時間、楽器を吹こうとすること自体、15年ぶりくらいのことだった。

練習について、僕が感じたことや課題として見つけたことはここには書かないのだけど、とにかく疲れた。そりゃそうだ、15年ぶりなのだから。

僕がラッパを吹かなくなり始めた15年前に生まれて、今現在15歳に成長してブラバンをやっている子供がいるとする。その子なんかのほうが僕よりも圧倒的にちゃんとラッパを吹くだろうし、耐久性も勝てる気がしない。

とにかく疲れが酷かったのだけど、よく考えたらラッパを吹くという「スポーツですらないようなこと」すら、僕は長年行わずにいた。大したことでなくとも、身体を使うこと自体がとても久しぶりだったのだ。

帰宅すると背中や下腹に筋肉疲労がズンと残っていた。ある程度の時間、ラッパを吹いて少しでもちゃんとした音を出そうとすると、息を吐き出すために体内の筋力を使うのだ。普段から楽器を吹いている人は無意識のうちにそんな筋肉を使って、知らないうちにそれなりの筋トレをしているのだろう。

勿論、片道6キロのチャリンコ移動による疲れもあるのだろうけど、背筋や腹筋の痛みはチャリンコ由来によるものではないはずだ。


少し離れた郊外までチャリンコで出掛けてラッパの練習をする。そんなにハードなことでもないし、大学生の頃は最も長い距離の移動でもっとハードな練習を2日に一度くらい行っていた。更にその頃は練習後にむちゃくちゃに酒を飲んだりしていたものだ。


学生の頃からだと25年、ラッパの練習をやめてからは15年、この間に僕の肉体はひたすら退化を続けていた。歳を取ることによる退化もあるけど、それ以上に怠けていたことによるものが大きい。


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この間にちゃんと練習しておけばどんなに巧くなっていただろうか?なんて思うこともある。しかし、そんなものはどれ程考えてみたところで過去にもどれる訳ではないし、そんなのラッパのに限った話ではない。

今出来ることをいまだちゃんとやる。
何事においてもこれしかないのだ。