娘の弁当

…と、同様のタイトルの記事をこのブログに何度も書いたことがある。もう2年近く前になるが、長女の弁当を作っていた期間が3ヶ月くらいあったのだ。

気になる方は「弁当」で検索して、22年の秋から冬くらいのものを見てみて欲しい。この間の僕が長女に作った弁当がほとんど記録されているのではないかと思う。

さて、今日の「娘の弁当」は僕が作ったものでない。丁寧に言うと「娘が自分のために自分で作った弁当」のことになる。ゴールデンウィークに彼らのウチで弁当を作ってやってから、娘も彼女なりに楽しみながら弁当を作るようになってきたらしい。そして、たまにではあるがそんな弁当の写真を報告のように送ってくる。

これはゴールデンウィーク明け間もない頃の弁当。玉子の下はトマトソースの味付けのごはんで、僕が下宿で作っておいたトマトソースを利用したものだそうだ。

玉子の脇から見えているものが何だか分からずに聞いてみたら「山葵漬」とのことだった。オムライスと山葵漬というと随分、頓珍漢な取り合わせではあるが、梅干しを添えるよりは調和するだろう。あるいは出汁を効かせた出汁巻き玉子にマヨネーズを添えるなんてことよりも数百倍マシだと思う。

学校給食でごはんや味噌汁に牛乳が添えられる…というのをうるさく指摘する人がいるが、それも結構なことだと思う。

指摘や批判、状況によってはボイコットやストを体現しないと物事には進歩しないこともある。しかし、何にでもマヨネーズをかけるという「取り合わせやら和洋中の食のコンビネーション」を理解しない奴は黙っておけと思う。

また別の日にはこちらの写真が送られてきた。。「おばあちゃんの弁当みたい」とのコメント付きで。

ここでの「おばあちゃん」は彼女の祖母たちを具体的に指すものではなく、一般的な年寄り女のことを指すはずだ。「枯れた老女が喜んで食べていそうな鄙びたオカズの弁当」というのが「おばあちゃんの弁当」ということである。玉子焼、薩摩芋、コンニャクと竹輪の煮物(?)というオカズは確かに年寄りが好みそうだ、それも相当に枯れた…。

娘は、こうした弁当を食べるバイトの休憩時間が本当に楽しい…とも言っていたし、最近弁当を作るのが楽しくなってきた…とも言っていた。結構なことである。

大して美味いものが作れなくとも、ものを考えながら料理を続けていればそのうちに美味しいものも作れるようになる。継続は力なり。彼女の研鑽を応援したい。

 

…そうそう、長年料理を続けているけど一向に美味いものを作れないという人もいるようだ。僕はそこまでの料理下手と接したことはない(というか、そんな人の料理はまず食べない)ので、本当にそんな人がいるのか不思議に思う。

しかし、そんなのが実在するなら「ものを考えて料理していない」のか「美味いものを作る気がない」のかだと思う。

食材の調達や品質から切り方、調理器具の選定から食材への火の入れ方、調味料の量やそれを加えるタイミング、そしてどんな器に装えば少しでも美味く見える?…そんなことを考えもせずに、漫然と料理を作ってみたところで、それは「マズい料理を作ることの反復練習」をしているだけなので、ますますマズい料理を作るのが上手くなるだけだ。

「いや〜、考えて作っているんですけどね…」なんて言い訳する奴もいそうだが、それは思考や考察が浅すぎるのだ。下手な考え休むに似たり…と言うか。ちゃんとものを考えて行動すれば、きっと成果は出るものだ……って、本当にバカのような人もいるから、そうとも限らないのだけど。