天麩羅について

先週の出来事だけど、久しぶりに天麩羅を揚げた。


揚物は大好きだから、スーパーやら惣菜屋で出来合いのものを買ってきて食べることもよくあるし、外の店で天丼とか天麩羅蕎麦を食べることもある。

しかし、自宅で作る揚物というのは大したネタを使っていなくても特別に美味しいもののように思う。


ものすごく収容力のある広くて機能的な台所があれば、僕の揚物自作頻度も少しは上昇するのかもしれない。やはり、揚物を作るのは手間がかかって面倒なのだ。料理をすることが好きだから、台所での滞在時間は中年男性としては多いと思うし、身の丈にあったレベルの機能的な台所を持っていると思うが、それでも揚物は面倒だ。理想的な台所については、またの機会に記したいと思う。


さて、久しぶりの天麩羅であるが、2年3ヶ月ぶりだと思う。ゴールデンウィーク前くらいになると、香り高く美味しそうな山菜が出回る。これらは和物にしても美味しいけど、やはり天麩羅が美味しい。2年前に天麩羅を揚げたのは、そんな山菜をメインにしたものだった。

それ以来、どうして天麩羅を揚げなかったのかというと、この2年余りの期間は「一緒に天麩羅を食べるメンバーが揃わなかった」からだ。


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池波正太郎曰く「天麩羅は親の敵に会ったかのように…」というのは本当に正しいと思う。何種類かの天麩羅ネタをすべて揚げてから、大皿に盛り付けて皆が揃っていただきます!というのも、家族団欒っぽくていいものだ。しかし、そうして寝かされた天麩羅は熱々ではないし、パリッとしたものでもない。やはり、天麩羅は揚げたてを揚がったそばからアフアフ言いながら食べるのが美味いと信じている。冷めた天麩羅でも、翌朝に残った天麩羅を食べても美味いと思うのではあるが…。

そんな訳で、天麩羅を揚げる時、僕は「とにかく揚げ手になる」ことを厭わないようにしている。と言うよりも、揚げることに喜びがあり、揚げたてを食べさせることを使命のように思う(ようにしている)。

従って「イイ食べ手」がいない時には、僕は天麩羅を作ることはしない。モチベーションが高まらない中での天麩羅調理は天麩羅自体に失礼なような気すらするからだ。どうしても天麩羅を食べたければ、外で食べればいい。自宅天麩羅とはそういうものだろうと思っている。


先週の天麩羅も美味しかった。
天麩羅は「ネタ」「揚げ方」「出来たてであること」など、いろいろな要素のうえに、その美味しさが成り立っているものなのだろうけど、やはり「一緒に楽しむ面子」が一番大切であるように思う。

こうしたイイ面子との食事の機会はこれからも大切にしていきたいと強く思う。